浄土真宗 念仏が一番尊いのか
「念仏成仏是真宗」とか「ただ念仏して」とか、
普通、念仏とは、口で南無阿弥陀仏と言うことです。
浄土真宗ではその南無阿弥陀仏と口で称える心の相異によって三つの念仏があると教えられています。
ちょうど、涙を流していることから言えば同じことですが、悲しくて泣いている人もあれば、くやしくて泣いている人もあります。
又嬉しくて嬉し涙を流している人もあるわけですから、涙にも種々の心が分れるようなものです。
同じ涙を流していても悲しい涙と嬉しい涙とは雲泥の差がありますように同じように口で南無阿弥陀仏と言っている人でも、その称え心によって大変に異なるのです。
親鸞聖人はその称え心を大別して三つとせられています。
だから念仏にも三つの差別があるわけです。
一つは万行随一の念仏、
二には万行超過の念仏、
三には自然法爾の念仏だと
御教示になっておられます。
しかもこれは決して親鸞の独断ではなく釈尊の御教えだと申されて
万行随一の念仏は観無量寿経に開説せられており、
万行超過の念仏は阿弥陀経に説かれており、
自然法爾の念仏は大無量寿経(無量寿経)の念仏であるとせられ、
浄土真宗の念仏は真実の経、大無量寿経に説かれている自然法爾の念仏であると断定されております。
ではどんな心の相異でこのような念仏に差別があらわれるのかといいますと
万行随一の念仏といゝますのは自分は親孝行もしているし他人様に親切もしているし尊い念仏も称えているからこの世も不幸にもならないだろうし、又死んでも悪いところへは行かんじゃろうと思って南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と称えている人の念仏をいいます。
すなわち、念仏は尊いものだからそれを称えていればよい結果が来るだろうと思って諸善と並べて念仏している人の念仏をいうのです。
念仏の中に一切の功徳がおさまっているのだからこれさえ称えていれば必ず助かるのだと思って称えている人の念仏をいうのです。
以上二つの念仏はいづれも自分の称えた念仏で何んとか助かろうと思って称えているものですから、これを自力の念仏とせられ、これでは助からんと教えていられます。
それはおおきにおぼつかなき次第なり」
と『御文章』に何ケ所もかいておられる通りです。
3番目の自然法爾の念仏とは先の助けて貰うと思って称える自力の念仏とは全く異って、
日本晴れの心に大安心大満足になった人がこの広大無辺の仏恩にどのように報いようかと噴きあげる喜びが口に南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏とあらわれるものを申します。
これを他力の念仏、又、大信海流出の称名というのです。
「念仏成仏」といわれた念仏も「ただ念仏して」といわれた念仏も、
この信心決定(救われた)した人の称える自然法爾の念仏を申されたのでありますから
よくよくこのことを心得えていなければなりません。
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