信心正因か称名正因か

親鸞聖人の御教は

称えてのお助けか

信じてのお助けか

本願だけでは、ハッキリしない


 親鸞聖人のみ教は釈尊出世の本懐である阿弥陀仏の本願を開顕せられたものである。阿弥陀仏の本願を離れて浄土真宗はあり得ない。

 では阿弥陀如来の本願とは何か。

「凡ての人々を必ず救いとる」という御約束であるが、それについて三信(信心)と十念(念仏)とが誓われているので「信じてのお救い」なのか、「念仏称えてのお救い」なのか、本願だけでは判然としないのである。こんなところから本願の真意の判らない者達は「念仏さえ称えていれば助けて頂けるのだ」と信ずるようになるのである。親鸞聖人34才の時、法然門下に於て信行両座の諍論がなされた時に行の座に入った連中も、そのように思い込んでいたのである。


真宗は願成就文に立つ


 そこで親鸞聖人は『教行信証』信巻に於いて

「横超とは即ち、願成就一実円満の真教、真宗これなり」

と喝破なされて、阿弥陀仏の本願の真実意、ブッダ出世の本懐、三世諸仏の本意、七高僧の真精神すべては、偏えに第十八願成就文に説かれているのだと断定なされた。故に、親鸞聖人の開顕なされた浄土真宗の教義“信心”の一切は、『本願成就文」によらなければならない。

 これを伝承せられて覚如上人は『改邪鈔』に

「かの心行を獲得せんこと、念仏往生の願成就の、信心歓喜乃至一念等の文をもって依憑とす。この外未だ聞かず」

と断言なされ、真実の信心決定する道は、願成就文のみに明示されていると教えられている。

更に「真宗に於ては、いくたびも廃立を先とせり」といい

「それについて三経の安心あり、その中に大経をもって真実とせらる。

大経の中には第十八願をもって本とす。

十八願にとりては、また願成就をもって至極とす」

と教えられている。

さればこの願成就文に反することを教えるものは一切、異解異安心であり、断じて真宗の道俗とはいわれない。


唯信独達の法門


 では、浄土真宗の教義安心の至極を明示されている『本願成就文』とは何か。

 「諸有の衆生、其の名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん至心に廻向せしめたまへり。彼の国に生れんと願ずれば、即ち往生を得て不退転に住す。唯、五逆と正法を誹謗せんとをば除かん」

 漢文でかけば四十文字である。

この詳しい説明は今できないが、この願成就文には称名念仏が出ていないから

「念仏称えたら助かる」

と信じているのは真宗の信心ではないことが明白になる。

願成就文では明らかに「信ずる一念」で信心歓喜と助かるのだと信心正因が打ち出されているからである。


 されば、本願の「乃至十念」の称名念仏は三信の信心に収って、ここに親鸞聖人によって弥陀の本願の極意は唯信独達であることが鮮明になったのである。親鸞聖人が、この『願成就文』を説明する為に『教行信証』信巻上下二巻に亘っていられる御心中も察せられるではないか。

これ偏えに、行々相対の称名念仏を破って唯信別開の絶対門を打ちたてんが為であったのである。


称名正因—

 子が親を生む珍事


 このような親鸞聖人の教えに照らせば

「念仏称えよ、そうしたら助かる、信心頂ける」

「称名念仏はげめよ」なんどの教えは如何に間違っているかが判るであろう。

 もし、このような称名正因の説法を許すならば真宗の信心正因の教義は根本から転覆して仕舞うのだ。

その証拠には親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の書かれた御聖教には、どこにも

「信前の称名念仏はげめ」

とは勧めてはおられないのである。

勿論、「信心頂くには念仏することが必要不可欠のことである」

などとは絶対に教えられていないのだ。


 「信心正因、称名報恩」が、真宗の本義であるから、念仏はすべて信後報謝の念仏に限るのである。

いわば念仏は信心を親として生まれる子であるが、称名念仏さえしていれば助かるというのは子が親を生むという馬鹿げたことになるからである。

浄土真宗の法話をよく聞かねばならない。


 親鸞学徒は親鸞聖人の『教行信証』にたち、覚如上人の『改邪砂』、蓮如上人の『御文章』に一貫している「信心正因、称名報恩」の錦の御旗をふりかざして進むのである。

真実救われる道はこの道一本キリであるからである。

これを障げる者は何者と錐も容赦なく切り捨て、ふみ越えて聖人の真意を開顕してゆくのが我々の聖使命と心得えているものである。


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