なぜ浄土真宗で親鸞会だけ本尊が名号なのか
浄土真宗の御本尊のことについてお尋ね致します。
本願寺や浄土真宗の各末寺では阿弥陀如来の木像を御本尊として安置してありますが、親鸞会館は御本尊は御名号になっています。
浄土真宗の家庭もほとんど絵像を御本尊としていますが、なぜ親鸞会だけが浄土真宗でありながら御名号を御本尊となさっているのでしょうか。
非難される理由にもなるのではないでしょうか。
本願寺や浄土真宗の各末寺では阿弥陀如来の木像を御本尊として安置してありますが、親鸞会館は御本尊は御名号になっています。
浄土真宗の家庭もほとんど絵像を御本尊としていますが、なぜ親鸞会だけが浄土真宗でありながら御名号を御本尊となさっているのでしょうか。
非難される理由にもなるのではないでしょうか。
御本尊のことは、大変重要なことですから御不審はごもっともなことです。
蓮如上人は『御一代聞書』の中に
「他流には名号よりは絵像、絵像よりは木像というなり
当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号というなり」
と仰言っています。
他流というのは真実の仏法の判らない迷っている者ということです。
真実の仏法が判らずに迷っている者達は名号(南無阿弥陀仏)よりは絵像(紙や布にかいた阿弥陀仏のこと)がよい。
また、絵像よりは木像(木やカネで造った阿弥陀如来)の方がよろしいといっている。
しかし、真実の仏法の判っている真宗では、木像を御本尊とするよりも絵像の方がよい。
絵像よりは御名号を御本尊にするのが最もよろしいから、みんな御名号を御本尊にせよと明らかに御教導なされています。
木像でも絵像でも御名号でもどれでも同じだ。
礼拝する者の心さえよければよいじゃないかと無茶苦茶なことをいう人もありますが、もし何を御本尊としても同じことなら、蓮如上人は「よりは」「よりは」と仰言るはずがございません。
これら親鸞聖人や蓮如上人の御教えのままに布教し実践している浄土真宗親鸞会を非難攻撃するものは、未だ真実の仏法が判らず迷っている他流の者といわなければならず、事実その言動も、蓮如上人の仰言る他流のものと同じことをやっているではありませんか、それにつけても
「五濁の時機いたりては
道俗共にあらそいて
念仏信ずる人をみて
疑謗破滅さかりなり」
の聖人の御和讃が身にしみるではありませんか。
浄土真宗の法話を真剣に聞かねばなりません。
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