親鸞聖人はきびしい方か

 親鸞聖人という方はやさしい仏さまのようなお方だと私は今まで思っていましたが、
浄土真宗の法話を聞くと、
どうも聖人に対する考えが変って、大変きびしい方のように思われるようになりました。
世間一般の人の考えている親鸞聖人は間違っているのでしょうか。

 親鸞聖人には、きわだった二面があります。
一面は大変やさしい温い、いわゆる仏さまのような面です。
あなたが今まで想像されていた聖人ですね。

ところが聖人にはもう一面があります。

それは血も涙もないと思われるような厳しい激しい面です。
こちらの方は余り世間の人々に知らされていない聖人です。
聖人のやさしい温い面はよく強調されています。

二、三あげれば、無実で流刑にあわれても
「これなお師教の恩致なり」
とウラミも呪いも越えて感謝されている聖人は全く慈悲の権化です。
また剣をふりかざして殺しに来たかの弁円に対して
「御同朋御同行よ」
とかしづかれた聖人は阿弥陀如来の御化身と思われます。
また宿を邪見にことわった日野左ヱ門の門前で石を枕に雪をしとねに休みながら
「何とか日野左ヱ門に真実の幸福を知らせてあげたい」
と念ぜられた聖人にも文句なしに頭が下ります。
その外聖人のやさしい慈悲の面は多く語り伝えられています。

 しかしその反面、聖人には実に激しい、厳しい氷のような冷たい面が多くあることを忘れては
本当の聖人を知ることはできません。
真実の信心を知ることもできません。

世間の非難攻撃を一身に引き受ける覚悟で肉食妻帯を断行された勇気は、
まさに鬼神も三舎をさける激しさであり、
その為に流刑になった時の怒りの激しさは
「主上臣下、法に背き義に違す」
と仰せられ
「何という無茶苦茶な天皇や大臣どもであろう」
と馬ふれれば馬を斬り、人ふれれば人を斬る奮迅の勢いです。

又、法然門下の法友を相手に三大諍論をなされて
「お前らは法然上人という無二の善知識にあいながら未だ真実の仏教が判ってはいないではないか」
とそのあやまりを指摘された痛烈さは、彼らから
「親鸞こそ、背師自立の横着者だ」
と反撃されていることによってもよく判るでしょう。
法友に対する、このきびしさは情に於て尋常には考えられません。

84才時の長男善鸞の義別に至っては全く血も泪もない冷血漢と思わせる程の非情さがあります。
「今日よりは親と思うべからず、子と思うこと思い切りたり」
と勘当状を叩きつけられた聖人は一時の感情ではなかったのです。
その、証拠には、その後六年、聖人の御臨終に謝罪に来た時も遂に善鸞には拝顔を許されておりません。
人間誰しも誤ちはあるもの、それを恥じてあやまる者は許して然るべきではないかと思うのが人情でしょう。
しかし聖人は許されなかったのです。

これらの聖人の激しい厳しい面は余り世間に知られていないところですが、
聖人を理解し真実の信心を味う上に大切なこと柄ですから注意して下さい。
阿弥陀如来の慈悲と智慧南無阿弥陀仏の中に叩きこまれています。
その南無阿弥陀仏を全領獲得したのが信心決定といいます。

 されば信心決定した人は、阿弥陀仏の慈悲と智慧とによって生かされるのです。
その慈悲の面があらわれれば、やさしい温い人間像となり、
智慧の面が輝やけば、厳しい激しい人間像となります。
しかしその激しさも、厳しさも慈悲によって裏付けられたものですから、
あくまで真実を開顕せんが為のものであって、
我執我慢を通すものではありませんことを銘記しなければなりません。

この両面が混然一体となって真実を開顕して下された方が、
親鸞聖人であったのです。


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