親鸞聖人と柴田勝家

まことの厳しさと私情の恐ろしさ
親鸞聖人は、真実の為には吾子をも勘当

建長8年5月29日、84才の親鸞聖人が、遠く関東に布教していた吾子善鸞に義絶状を送り
「あさましさ、申すかぎりなければ、いまは親ということあるべからず。子と思うこと、おもいきりたり。かなしきことなり」
と親子の縁をキッパリと断ち切っておられる。

 善鸞が、「わしは父、親鸞聖人から真夜中に、ただ一人、真実の教法を秘かに伝授されたのだ」
といいふらし、その上、につかえて祈祷し、他人の吉凶をったりして人々を迷わせたことがその理由であった。
肉食妻帯の堕落坊主」
「背師自立の恩知らず」
と世間の猛攻に加えて、今また
「家庭を破壊して何の仏法か」
「産んだ吾子さえ救えない親鸞が他人を救うなど何事だ」
の冷笑、酷評は嵐の如く湧きおきた。
当然といわなければならない。

盲愛がもたらした落し穴——柴田勝家

 吉川英治の『太閤記』によれば秀吉が織田信長の弔合戦に勝ち名のりをあげてから織田家の一番家老、柴田勝家との間が急に冷却した。
両雄、並びたゝず、遂に一戦を交えることになった。
むろん、戦略戦術からいっても百戦百勝の歴戦の柴田勝家にとっては秀吉など限中になかった。
秀吉が尾張の清洲城で、信長のぞうりとりをしていた頃、勝家は、総参謀長であったからである。
勝家には「何の、ぞうり取り奴が」の満々たる自信があった。
ところが完壁の陣を誇る勝家に、大きな落し穴があったのである。

 彼は日頃、オイの玄蕃に目をかけ可愛がっていた。
玄蕃は勇猛果敢な武士であったが、叔父勝家の威勢もあり慢心していた。
出陣にあたり勝家から
「たとえ、中入りに成功しても決して深追いするではないぞ」
と厳命されていた。

にもかかわらず、若武者は破竹の勢いで前進に前進を続けた。
はては自らの勝利に酔い、本陣からの帰還命令も聞き入れなかった。
これが柴田勝家大敗の原因であったのである。
はじめの作戦計画では中入れに勝ったら、そこに玄蕃が止まり、後方の戦備を整える手はずであったのだ。
これが出来なかったところに「千丈の提もアリの一穴から」で全軍が総くずれになったのである。

 一方、秀吉は、玄蕃に攻め込まれて一城を抜かれたが
「ワシは負けた」とハッキリ認めると同時に
「本陣、転戦の為、ゆく手の邪魔を排し、途中に人馬の食をととのえよ」
と勝利への新しい手を次から次と打っている。
かくて歴史に名高き、あの賎ヶ嶽の大勝利を得たのである。

 思うに柴田勝家に人を見る目がなかったといえる。
甥の蛮勇を讃えるだけで、きびしく育てる面が欠けていたのである。
 戦国の武将にとって勇猛果敢な老いの玄蕃を愛する気持はよく判る。
しかし、私情や肉身の血に引かれていては回天の大事業はなし得ないのだ。
きびしかるべき戦国武将でさえ、私情におぼれて幾万の部下を地獄へ叩きおとしてしまった。

我らいかに聖人の洪恩に報ずべきや

 古今東西、吾子を可愛くない親はない。
もしも親鸞聖人が親子の慕情に敗けて、善鸞の邪義言動を黙認されていたら、末代、幾億兆の衆生は無間の火城に転落していたであろう。
「身は諸々の苦毒のうちにおくとも、わが行は精進にして、忍びて、ついに悔いじ」
の烈々たる、きびしさ、はげしさは、ひとえに我々に真実の仏教を伝えんが為であったことを思えばこの深恩、我らいかに報ずべきであろうか。


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