信ずるということ 知るということ
あの人ならと信じていたのに裏切られた、などということをよく耳にする。
さも意外なことのようにきこえるが考えてみればありうることなのである。
信ずるという言葉は、疑いという言葉と表裏一体となって成立している言葉であるからである。
疑いがあるから信ずるというのである。
ちなみに、明日の天気はと問われれば、雨だと思うとか、曇だと信ずるとしか答えられない。
ひょっとしたら晴れるかも知れないという疑いがあるからである。
これに対してきのうの天気は晴れだと信じているかと問うのはナンセンス。
明らかな事実、明らかにわかっていることに対しては知るという言葉が使われるのは言うまでもない。
ところがこれらを混同して、信ずるということを絶対的なものと早合点しているムキが多い。
神を信じている、仏を信じているというのも、邪教がいう信心も、皆自分が信じているのだから、その裏には疑いの心が存在していることを知らねばならない。
だから私はこう信じていますが、これで良いのでしょうか、などというのは愚の骨頂である。
言葉も信心決定とハッキリしている。
だから親鸞聖人はこれを信知とか、証知したと仰言っておられる。
ただ信じているから良いというものでは決してないのである。
信の上は、尊く思いて申す念仏も、また、ふと申す念仏も仏恩にそなはるなり。
多宗には、親のため、また、何のためなんどとて、念仏をつかふなり。
聖人の御一流には、弥陀をたのむが念仏なり。
(蓮如上人『御一代記聞書』)
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