なぜ阿弥陀仏が本師本仏なのか

阿弥陀仏を本師本仏とか、本師法王といわれる理由は何でしょうか、お尋ね致します。

阿弥陀如来は光明無量、寿命無量、智慧慈悲の如来であることは多くのお経に明らかですが、中でも、阿弥陀仏の勝徳は、光明智慧無量であることだと、親鸞聖人は讃嘆なされています。

 それは、すでにブッダが出世本懐経たる『大無量寿経』に於て
阿弥陀如来の威神光明は最尊第一にして諸仏の光明の及ぶこと能はざるところなり」
と喝破なされているからです。

光明といいますと、何か太陽か電灯の光線のように誤解する人もありますが、仏教では仏の念力、仏力を、何時も光明と表現致します。
我々の眼に見えない如来の大願業力、大念力、智慧を言うのです。
我々人間でも、その方面の修練を積めば、ある程度の念力を持つことができることは、今日催眠術や暗示などによって周知の通りです。
このように催眠術や暗示は一種の人間の精神力であり念力と云われるものの働きであることは科学的に説明されるようになりましたが、就中今日、ソ連などで盛んに実験されているテレパシー、念写等によれば、念力は眼には見えませんが光線と同じような働きや性質があることが知られています。

 例えば遠方の暗室に置いてある印画紙に向かってある人が一心に何かを念ずると、その念じたものが瞬時にして遠方の印画紙に写るということは、念力は光のような速度を持ち、光のような作用を持っていることが判ります。
物質万能の唯物主義のソ連においてさえこの事実を認めざるを得なくなっていることは注目に値いします。

 それにしても2600年以前に於て、すでに釈尊は、念力や精神力を光明という言葉で表現なされた智慧には今更ながら驚嘆せずにはおれないではありませんか。

 散乱放逸の我々人間にさえ、ある修練を積めば相当の念力を持つことができるのですから仏の念力力は我々の想像を絶するものです。
仏は光明と寿命、智慧と慈悲の覚体だといわれますのは、我々を救わんとする、このような大念力を体得していられることをいうのですが、阿弥陀仏が本師本仏と崇められ、諸仏の王とされますのは既に述べましたように阿弥陀仏の光明智慧が諸仏に超過して、我々を救済する力がズバ抜けているからです。
それは同時に極悪最下の我々を救済することのできる仏は阿弥陀仏以外には断じてないことを暗示された釈尊の金言でもあります。
果して釈尊は最後に「一向専念無量寿仏」と、その真意を説破なされています。
これはあらゆる諸仏、諸菩薩、諸神を捨てて一心一向に専ら阿弥陀仏一仏を信ずる以外に一切の人々の助かる道は絶無なることを明言なされたものです。

 この仏意を受けて親鸞聖人も
「一向専念の義は往生の肝腑、自宗の骨目なり」
とまで断言なされています。
蓮如上人また御文章
「諸仏菩薩を捨てて弥陀一仏を一心一向にたのむべし」
「更に、余の方へ心をふらず」
「その他には何れの法を信ずと云うとも後生の助かるということ、ゆめゆめあるべからず
とまで断定なされているのもけだし当然と云わなければなりません。


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