宿善の厚薄ということ

すべては聞法心、求道心如何にかかる

 浄土真宗の根本は一念往生にある。
阿弥陀如来の本願は一念でわれらを救いとって下される無上の勝法だからである。
しかし信心獲得の時期に前後不同ができるのはどうしたわけであろうか。
宿善まかせ、無宿善力およばずといわれるように、これひとえに各自の宿善の厚薄によることを知るべきである。
されば我々の宿善の有無や厚薄は我々求道者にとっては極めて重大な関心事になるのであるが、それを知ることはできないものであろうか。

 幼時の記憶さえハッキリしない我々に過去世の記憶が残っている筈がない。
これに就いて蓮如上人は『御文章』五帖に
「後生を大事に思い、仏法を尊く思う心あらば」
と仰言っているように宿善の有無は、後生大事と思う心があるかないか、仏教を尊く思う心の有無によって大体知ることができる。

 わが身の後生が気にかかり、仏法を尊く思う人には必ず聞法心が起きる。
全然気にかからない人は聞法心も起きないし、また謗りもしない。
謗るのは気にかかっている証拠であるから、必ず聞く時が来る宿善のある人である。
だから親鸞聖人は「信順を因と為し、疑謗を縁と為し、信楽を願力に彰し妙果を安養に顕さん」(教行信証
と疑謗の人まで宿善ある人になされている。これによって宿善の有無は聞法心の有無によって決定されるといってもよかろう。

 よって宿善の厚薄は、また聞法心の強弱によって大体知ることができる。
仏教では宿善深厚の人を頓機といい、宿善薄弱な人を漸機といわれる。
頓機の者は一度の法莚に遇っても信を獲るが、漸機の人は法筵を重ねて漸く信を獲得するのである。
丁度、枯松葉と青松葉のようなものである。
枯松葉はマッチ一本ですぐ火がつくけれども青松葉に火をつけようとしてもプスッープスッーと水をはじいて仲々火はつきにくい。
それと同様に、頓機は枯松葉のように御慈悲の火がつきやすい状態になっている人だから、すぐにも仏凡一体と燃え上がるが、漸機は今日もカラボコ今日も落第、どう聞けばよいのかどれだけ聞けばわかるのかとブスブス小言ばかりいって流転しているのである。
しかも漸機の者は圧倒的に多く、頓機は稀なのである。
記録に残っているものから窺っても法然上人のお弟子の中では、親鸞聖人と蓮生房と耳四郎の三人のみが頓機である。
聖人の門下では明法房ただ一人である。

努力精進宿善は求めるもの

 では、はからずも宿善浅きことを自覚した者は、宿善の来るまで手をこまねいて待たねばならないのであろうか。
勿論、断じてそんなものではない。宿善というものは向うの方からやって来るものではないからである。

 多くの人々は宿善到来というから宿善というものは、向うの方からやって来るもののように思っているが大間違いだ。
それは丁度、福のが家に入って来ると金持ちになれるという考えと同じで馬鹿げている。
福の神というものが決して向うからやって来るのではなく、自己の日々の努力精進が即ち福の神になるのである。
それと同じで、宿善というものも、待っていて来るものではなく、努力精進して求めてゆくものである。
かかる人にこそ宿善到来ということがあるのである。
『御一代聞書』の「時節到来(信心決定)という事用心をもして、その上に事の出来候を時節到来とは言うべし、無用心にて事の出来候を時節到来とはいわぬことなり、聴聞を心にかけての上の宿善、無宿善ともいう事なり
この蓮如上人の御言葉は正しくこれを教えていられる。
信心決定を目指すときには、常に浄土真宗の法話を聴聞すべきなのである。


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