近代システムと浄土真宗

 最近、産業、政治、教育界などで盛にいわれる言葉にシステム化ということがある。
極めて高度化し、複雑化した社会全体がさらに他国をぬき人間の世、開闢以来の発展成長の為に誰も彼もが、しのぎをけずって進展するための方法的仮設である。
 システムという語をウエヴスター大辞典で見ると「ある共通の計画に従う、また、ある共通の目的に奉仕する多種多様な部分から形成される一つの複合体」と書いてあるという。
したがってここでは組織された全体、あるいは全体を構成する部分の集合体ということが、世の中の発展そして人間の幸福増進の方法として他に優先すると考えられる。
今日の巨大なものの発展は文字通りこのシステムを度外視しては一寸考えられないことはとても否定することはできないであろう。
 しかし今われわれがよく考え問題にしたいところはそのシステムの中の個はそもそも何者であろうか、ということである。
 昔、豊臣秀吉に仕えた千利休はなかなか貪欲な面もあったようであるが、茶の湯の法に徹し、秀吉も頭が上らない一面があった。
殊にその死に態は素晴しかった。
大徳寺山門にあげた木像がたたって秀吉に蟄居閉門を命ぜられ、前田利家から「赦免を願え」とすすめられても「天下に名をあらわした我ら命乞いしては無念に候…」
ときかず気魄溢れる切腹をした。
 当節野獣的生命力が大切だというけれど、それは集団的生命力、集団に頼った生命力(暴力)の表現ではなかろうか。
東大紛争の英雄も独房で母の名を呼んでメソメソしていたという話もよく聞くことだ。
 然るに親鸞聖人の御力はどうであろう。
法然門下一時に承元の法難に遭い文字通りそのシステムが時の天子や権力者によって崩壊させられてからいよいよ強く御示しなされた。
即ち歎異抄二段によれば、遙々尋ねて来た同行衆に、
「たとい法然上人にすかされまいらせて……」とか
「いずれの行も及び難き身なれば」
と堂々自己の真実内容を披歴なされ、誰が何といおうとも
「せんずる所愚身が信心においてはかくの如し」
「この上は……めんめんの御はからいなるべし」
と断言なされた言の葉の強さ、尊さ、将に驚くべき気迫信念である。
否、弥陀直伝の他力の信心の金剛力そのものである。
 ここから浄土真宗は常に出発しその金剛力の強さがやがて世にあまねく普及するのである。
蓮如上人また然り。
そして今堂々と真実の白道を聞き伝える親鸞学徒もまたこの浄土真宗の法話に説かれる道を真っしぐらに進んでいるのである。
 現代社会に伸びんとする浄土真宗もシステムを忘れてはならない。
しかしその前に親鸞学徒一人一人が、捨てられても叩かれても、うちひしがれても真実を叫ばずにはおれない、個々が白熱化の主となっているかどうかが問われる秋が来たようである。
喰うか喰われるか謙虚に真実の前に今一度手をついて問え!と叫ぶものである。


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