聞法相続の大切なること

 我々の先覚者は最も宿善厚くなる道として、

一には骨折って聞け、

二には衣食忘れて聞け、

三には間断なく聞けと教えていられる。

いくら真剣に聴聞しても、我々の魂は無始流転のしぶとさであり、

三世の諸仏がアキレ果てたシロものであるから仲々聞いてはくれない。

されば間断なく聞けとお勧めになっている。


親鸞聖人も

「大菩提心おこせども、自力かなわで流転せり」

と述懐なされているように一朝一夕で聞ける宿善深厚の人はいない。


 蓮如上人は

「いたりて堅きは石なり、至って柔かなるは水なり、水よく石をうがつ。

心源もし徹しなば菩提の覚道、何事か成ぜざらんといえる古き詞あり。

いかに不信なりとも、聴聞に心を入れて申さば、お慈悲にて候あいだ、信をうべきなり。

ただ仏法は聴聞にきわまるなり」

と聞法相続こそ信心獲得するに最も大切なことだと教えていられる。

間断なき浄土真宗の法話の聴聞こそ、やがて信楽開発の天地まで我々を導入する。


 何事によらず根気よく続けるということは、ものを成就するに最も大切なことである。

三日坊主では何事も成功するものではない。


 朝夕の御飯でさえ、ふきあがるまで火をたやしてはできあがらない。

たやせばたちまちメッコ飯になって食べられなくなる。

マッチ一本で灰になる家屋でも一日や二日の努力で完成するものではない。

それ相当の長年月の隆々辛苦の結果である。

途中でその努力が断たれれば完成した家屋は楽しめない。


 しかし何事でも続けるということは苦しいことであり至難の業である。

この世の事でも成功する人が少いのはその証拠である。

楽なことでも続けると苦になるのだから、真実を求め続けるということは更に難しいことである。



九十里は百里の半ばなり


 青年は一般に気短な傾向があるから始めは騎虎の勢いで求めるがやがて尻り切れトンボになりやすい。

後生の一大事から出発したものは最後の勝利を克ちとるが、一時の感情で信心の境地に憧れたり名聞利養の為にする聞法は絶対に続かない。

その点若い求道者は極力感情を殺し、後生の一大事を凝視してゆくべきである。


 老人はまた肉体の衰えから自然に根気がなくなって、仲々聞法相続がおぼつかなくなる。

それに種々の聞法を妨げる悪縁が多くなるので、それらを振り切って聞くことは、まさに

「大干世界にみてらん火をもすぎゆきて……」

の覚悟が必要である。

蓮如上人は年老いては信が頂けないとまで仰言っていられる。

ある先達は色気がなくなってからは仏法は聞かれぬとも言っている。


 青年は元気がありすぎて短気で聞法求道が続かず、老人は元気が衰えて根気がなくて聞けない。

いずれもいずれも聞法相続は難しいことだが、頑張らなければこの世へ出生した所詮がない。

唐の顔真郷の言葉に「九十里は百里の半ばなり」というのがあるが、真実を求める者の特に深く味うべき言葉である。


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