坊主と僧侶・親鸞聖人は僧侶ではない?
思うに坊主と呼ばれることに名状しがたい屈辱感を覚えるからでしょう。
坊主はよいとしても坊主にかぶせる冠詞が悪いからです。
糞坊主、生臭坊主、馬鹿坊主、嘘坊主、乞食坊主、盗人坊主、我利我利坊主、ぼこぼこ坊主、三日坊主、坊主丸儲けなど、何でもかんでも悪いことのありったけを坊主の頭におっかぶせます。
それでまだ不足してか蛸坊主、狸坊主、ケシ坊主、ネギ坊主などの動植物を始め一年坊主、テルテル坊主まで景気をそえさす。
朝寝坊、ケチン坊、シワン坊なども飛び出す始末です。
こうまで悪因縁の深い坊主の呼称をきらって坊主になりたがらない心情は、まことに無理からぬことだと同情されますが、私が得度して僧侶にならないのは、そんな自己自身の、ささいな感情問題によってではありません。
この如来聖人の洪恩を念う時、身を粉にしても骨を砕きてもと思って土曜も日曜も返上して苦悩の大衆の中にとび込んで説法獅子吼せずにおれないのはその為なのです。
何とか露命を如来聖人の為に捧げたいと念じているものです。
その私の最も崇敬し敬慕している親鸞聖人は自ら
「僧に非ず俗に非ず」(教行信証)
と明言なされています。
聖人は今日の僧侶のやっているような葬儀や年忌法要等、死人の後始末をするようなことは生涯を通じて一度もなさっていない史実を見ても、それは明らかです。
聖人はひとえに生きた人間を生きている間に絶対の幸福に導く為に波瀾万丈の生涯を生きぬかれた方なのです。
仏教が日本に伝来して以来の高僧千六百余名の伝記を記した師蛮の書いた『本朝高僧伝』にも親鸞聖人の御名前が出ていないのは、蓋し当然のことなのです。
にもかかわらず、この親鸞聖人を僧侶だと思っている人がいかに多いことでしょう。
これは全く聖人の御意を知らない人がいかに多いかを物語っています。
この親鸞聖人のみ跡を慕い一味平等の世界に生きる者は、税金のがれや一部老人の安易な敬意を得る為に僧侶や坊主になれる筈がないのです。
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