顕微鏡のように悪を見逃さない仏眼

顕微鏡と仏眼
「一日一善、これは私の人生の教訓であり、今日まで実施してまいりました。
どんな小さなでも勧んでやることであり、やれるのです」
 これは世間で「立派な人だ」と尊敬されている人の言葉である。
いわゆる世間でいう人格円満、角のとれた人間の常とするところである。

 ところが一方、世界の光と仰がれている親鸞聖人は
「一生造悪、蛇蝎の如き心の親鸞」と悲歎なされ、
また大信海化現といわれる善導大師は
「自身は現に是れ罪悪生死の凡夫」
と自己の罪悪の深さに驚いておられます。
 こうしてみると、世間から尊敬されている点からいえば、親鸞聖人、善導大師もかどのとれた人間も同じであるが、何故各々その主張することがかくも異なるのであろうか。

善悪を区別する尺度
 これは自己をどの立場に立って見つめるかによって異なってくるのである。
いわゆる善悪の区別の尺度をどこにおくかによって善人にもなれば悪人にもなるのである。
 それはちょうど我々の手を見つめるとき、その見方によって清潔でもあり、不潔このうえないものとなったりするのと同じである。
 我々の手は普通肉眼を通してみると別段どこといってきたなくない。
ところが同じ手を虫メガネを通してみると幾分変ってくる。
太くなったり大きくみえたりするが、しかしそんなに大変りはしない。
 ところが一度顕微鏡で見るとどうであろうか、不潔きわまりない自分の手を見せつけられるであろう。
尾籠な話であるが、これは実験で分かった事である。
我々が便所で大便の処理をする場合、おとし紙七枚で処理した時、肛門についている大腸菌(仮に100億個とするならば)の半分以上(50億以上)は七枚の紙を通して手につくという。
それをたまり水で洗っても20億個足ずしかとれず、水道の水で洗うと25億、石鹸で洗っても33億しかとれないという。
まだ17億は手についていることになる。
完全におとすには医者の使っている消毒液で洗わねばならない。
ところがほとんどの人は水道の水で洗っているようであるから、手には無数の大腸菌がついているわけである。
肉眼や虫メガネでは見えないが顕微鏡で我々の手をみた場合、どんなバイキンがついている事やら想像に難くない。
 この顕微鏡でみた手こそ真実の手であって肉眼や虫メガネを通してみたのは真実の手ではない。

仏眼から見た自己
 これと同様、我々が自己を知るにつけても三通りの方法がある。
 前述のたとえとあわせるならば
1肉眼でみるというのは法律の上から見た自分であり、
2虫メガネでみるというのは、道徳倫理からみた自分であり、
3顕微鏡でみるというのは仏の眼から見た自分というように三別することができる。

 しかも法律や道徳的に見だ自己は未だ不完全をまぬがれず、仏の眼からみた相こそ真実の自己です。
法律的に善人であっても道徳からみれば悪人であり、
また、道徳的に善人であっても仏がごらんになれば微尽の悪もみのがしませんからいかなる人間も皆悪人となってしまう。
だからこそ、自分は法律的にも道徳的にも悪い事もしていないし、他人からは人格円満といわれるから善人だと自惣れているのは、とんだおかど違いである。

 人間の作った道徳法律のあらい網の目をくぐりぬけることはできても、三世十方に敷きつめた仏教の網の目をくぐることは決してできない。
だからブッダ大無量寿経には
心は常に悪を念い、
口は常に悪を言い、
身は常に悪を行い、
曽て一善も無し
と説かれて微尽のもみのがさず、真実の自己を浮きぼりになされ、また親鸞聖人は
「すべての人間は常に欲望怒り愚痴の心で善心を汚し法財を焼いている。
又そんな心で善根を修めようとしてもそれは「雑毒雑修の善」であり「虚仮諂偽の行」であり「真実の業」ではない。
だからこの虚仮・雑毒の善で助かろうと思うても絶対不可能であるぞ」
教行信証にあますところなく真実の人間性を道破なさっております。
 ここに全人類は法律や道徳でなくあくまでも仏法に基板をおいて浄土真宗の法話聴聞して自己を深く内観し、真実の自己を徹見して魂の解決を急ぐべきである。



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