正しい仏教の先生(善知識)を選び求めることの重要性

 いかに厚い宿善があっても教え導いて下される知識に遇わなければ、仏教を聞くことはできない。
知識とは、仏教で、仏教の先生のことを知識という。

ところが仏法を我々に説き聞かせてくれる知識に、善知識と悪知識のあることをブッダは教えられ、悪知識を捨て善知識について聞法精進しなければ助からぬことを警告された。
 これを親鸞聖人は『愚禿鈔』下巻に
「善知識とは、悪知識に対するなり」
と仰せになって知識をくわしく分類し、真の善知識の教化に遇わねば救われないことを明示なされている。

「西へ行く人に順えば西へ行くなり、東へ行く人に順えば東へ行くなり、
信なき悪知識に順えば地獄へ堕つるなり、善知識に順えば仏にあえるなり」
と言われるように、仏法を聴聞しようとする時に最も注意しなければならないことは、知識をきびしく選んで聞くということである。
 七里恒順師は
「知識は針の如く同行は糸の如し」
といわれたが、まことに判りやすい喩えで、知識の針が曲れば同行の糸も曲らざるを得ない。
知識の針がいい加減なところで止まれば同行の糸も徹底することはできない。

 まことの信心徹到した善知識を求め探して聞かねば、いかに真剣に浄土真宗の法話を聴聞しても無駄であり、絶対に助かるということはあり得ないのだ。
仏法のことは万劫に取りかえしのつかない後生の一大事であれば、知識えらびは真剣になされねばならない。
 どんなに大事に可愛がってもわずか50年か100年で亡びる肉体の病気でさえ、難病になればなる程、医者を選んでどんな遠い処へでも出かけて行くではないか。
いろんな人々に名医を尋ねどんなにお金を費してもかまわず、探し求めるではないか。
にもかかわらず、未来永劫の魂の一大事を導く善知識を求めえらぶ者がないのはいかがしたことであろうか。
「高座へ上って、衣を着て説教している人ならどなたの説教も同じことだ、仏法は広く聞かねばならない」
と平気で言ったり、他人にまで勧めている者がいるが、とんでもない心得違いをしているのだ。

 ブッダや親鸞聖人、蓮如上人方が善悪の知識を選んで仏法を聞かねば絶対に助からんぞと教示せられていることを知らないのだ。
 たとえ聴聞不足でこれらの善知識方の教えを知らなくとも、真剣に仏法を聞いて、わが身は三世の諸仏や菩薩にさえ見捨てられた難化の三機、難治の三病のおそろしい魂を持っていることが知らされれば、この逆謗の屍を生かす教えを説く知識はどこかにおられぬか、この私の苦悩を救うて下さる大徳はいないかと、探し求めずにはおれない筈だ。

 妙好人、山口善太郎は信仰に行き詰った時
「自力他力の水際を、委しく教うる人はなし、
 真の知識にあいたやと、聞かば千里のその外の、
 海山越えても厭わじと、狂い廻れる甲斐もなく、
 何のしるしもあらばこそ」と叫んでいる。

 だれの説教も同じように聞えて来るのは、所詮は未だ我が身の後生の一大事ということが本当に判らないからである。
そのようなことは誰れしもあることではあるが信仰が幼稚園に遊んでいる時である。
未だ曠劫流転の逆謗の屍に気がついていないから真剣に知識を求める心が起きないのだ。


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