一念の信心を言うと一念覚知にならないか?

一念の信心をやかましく説くと一念覚知の異安心になりませんか。
他力の信心はいつとはなしに頂けるものではありませんか。

阿弥陀如来に救われ絶対の幸福になった時を浄土真宗では「信の一念」といいます。
それは、アッとも、スッともいう間のない一念で阿弥陀如来は私達を救い給うからです。

 親鸞聖人はこれを「時尅の極促」とか「極速円融の真詮」とも仰言って、長い間かかって少しづつ諦得する救いなら極速とは言われないが聞即信の一念の早わざだから極速といい、その一念で仏智満入、仏智全領して微塵の不足もなく大満足させらるるから円融の真詮といわれています。
 この一念の時が我々に判るものか、どうか。
判るというのは一念覚知の異安心ではないかとあなたは難詰なされているのですが、仏教では古来、時を語るのに便宜上、実時と仮時ということが言われています。
 実時というのは午前3時20分とか、午後10時40分とかいう時間をいい、仮時というのは、夢の醒めた時とか、火傷した時とか、蜂にさされた時とかをいいます。

 しかも仏教では常に実時は語りませんから、私はきびしく一念の信心を説きますが、それはあくまでも、魂の解決ができたか、どうか。
本願に対する疑心が晴れて大安心した一念の味があったか、どうかをやかましく説破しているのです。

 それは絶対不二の弥陀の本願が徹底したならば、その一念に無碍の大道へ飛び出さされるのですから実時に用事はありませんが、晴れたか、晴れないか、安心できたかできないかが大問題であり、この体験がなければ救われたとは絶対に言えないからです。

 されば蓮如上人はこれを、
「もろもろの聖教をよみ、物を知りたりというとも一念の信心の謂を知らざる人は徒事なりと知るべし」とか
「これを知らざるをもって他門とし、これを知れるをもって真宗のしるしとす」(御文章)
とまで仰言っているのです。

 そもそも一念の信心の本源は釈尊出世の本懐中の本懐経である『大無量寿経』の眼目である「本願成就文」にあるのですから、これこそ阿弥陀如来の本願の至極であり、釈尊出世の本懐であり、宗の洲源であり、凡夫往生の枢要であり、実に浄土真宗の肝腑なのです。
 故に、覚如上人は『改邪鈔』に「かの心行を獲得せんこと念仏往生の願成就の、信心歓喜乃至一念等の文をもって依憑とす。
この外未だ聞かず」とまで言い切って、この一念の信心を抜いては浄土真宗にはならず、虫けら一匹助からないのだと断言なされているのです。

自然発得の邪義
 それを今日の真宗の道俗の多くは「覚不覚を論ぜず」とある御裁断の御書を楯にとり、覚を排して不覚を執じて、一念をきびしく説く人を一念覚知の異安心と攻撃しいつとはなしに信心は頂けるものだと言っていますが、それこそ「自然発得」の邪義であり異安心になります。

 この異安心は仏光寺派の円存房の言い出したもので、法を聞いてさえいればいつとはなしに有難くなったのが信心だといい、聞法を肝要というのはよろしいのですが一念の信心をいつとはなしに頂けるものだといって一念を毛嫌いするのです。
また、関東にも「筍秘事」といって、法を聞いていると自然に自力の皮が取れて信心決定するというものもありますが、これらはみな真実の信心の体験のない人達の云うことで、凡て異安心ですからよくよく御用心下さい。



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