信心と悪業煩悩との関係はある・ない

信後は煩悩執着が大いに減退するのではないか

煩悩や身口意の三業で造る悪業は減りも増しもしません」

とありますが私の体験では熾烈な煩悩執着もお念仏で大いに減退します。

煩悩ある故に苦しみまた、病気にもなります。

信心決定すれば信前の心と大いに変り、しかも悪業も大いに減ります。

また左様でなくては社会的にも浄土真宗は何の価値もありません。

こんなところに浄土真宗信者は世間から馬鹿にされ勝ちです。


 また浄土真宗広宣の点ですが他宗(新興宗教も)を誹謗することは返って浄土真宗を傷つけます。

他宗とて皆国家の法律により許可され布教する権利を持っております。

無願無信の大部分の国民に少しでもに導く宗教があれば宗教家として大いに慶賀すべきことです。

浄土真宗が最高の宗教と打ち出す処に高級インテリの猛烈の反感があります。

これは私が診療上実験せし事実です。

で浄土真宗は有縁の人にのみ布教しております。

考えることの少い現代人に浄土真宗は難中至難です。

私は患者に(何宗でも)家の宗教に帰依せよと言っております。

胃ガンで苦しんで居るのに御浄土参りの宗教は真に最必要ですが、現実は厳しくお念仏や本願と言った処で入信する人は少なく具体的な新興宗教に走ります。

中には全治せし実例も多々あります。


 浄土真宗は実に宗教の真髄根本だと思いますが、それだけ世人の耳に入り難いと思います。


 第一言葉が難解です。

浄土真宗布教人は徒らに言語に執われておるように思います。

一般入信の動機は何といっても無念無想の合掌礼拝が大宇宙真理に摂取される最大チャンスではないでしようか。


 仏照覧の上からは構えて悪事は謹むべく、又、少しでも善事に精進すべきです。

これも如来回向です。

七里和上伝にも、構えて煩悩心を出すでなく、又、善事に励めと仰せられて居ります。

(俗諦門)

いかがでしょうか。


信・疑を語るは他力信心です。

自力信は悪業煩悩に執われます。


御親切な御批判、有難く拝誦致しました。

医師という激務の傍ら信仰について深い御関心心から敬服致します。

さてお尋ねの件についてお答え致します。


あなたは信心決定すれば熾烈な煩悩執着は大いに減退するはずだ。

私は信後大いに少なくなった。

それにもかかわらず、信後も煩悩や身口意の悪業は少しも変らぬなどと言っているから世間から馬鹿にされ、社会的価値がなくなるのだと御叱声下さいました。


 確かに仰せの通り信心決定すれば信前の心とは大いに変りますから、その言動もまた大いに変ってこそ自然であり、又、多くはそうなると私も確信致しております。

その点あなたと同感であります。


 しかし、真宗では、他力の信心を我々の身口意の三業の増減や善悪では語らないことになっております。

否、絶対に論じてはなりません。

その理由は、阿弥陀仏から、回向される他力の大信心は、絶対不二の信心でありますから、相対的な我々の三業の増減や、善悪によっては、信心の有無や、実相は到底、推量できるものではないからであります。


 信心決定すれば煩悩も減退し執着も少なくなり病気にもならぬようになるといえば大衆の耳には入り易いでしょうが種々の問題が生じてまいります。

信心決定すると一ヶ月に腹立つことが何回位まで減るようになるのか、とか、何回以上をつくと信心決定したことにはならないとか、或は善悪の規準などが問題になり、善悪にとらわれ悩む相対的自力の信心になり、他力信の特質たる一念の信心が立たなくなります。

それでは親鸞聖人の

「善もほしからず、もおそれず」

という絶対他力の大信心とは全く異質のものとなってしまいます。


 故にこそ、親鸞聖人は他力の信心を善悪相対で語られたことは一度もなく、常に信疑廃立で示すというのが『教行信証』に示された精神であり『改邪鈔』『御文章』もそれは共通しているのであります。

これは、真実の他力信心は、阿弥陀如来の本願に対する疑心が、晴れたか、否かの一点のみで語られねばならないということであります。


 御批判下された拙著の言葉も他力信心の絶対の境地から、身口意の三業の増減や善悪にとらわれている自力信心を打ち砕く為に書いたものであることをまづ御了承下さい。


他力信心の大自覚

 次に御批判なされた文章は信心決定した者の自覚から申し上げたものであります、信心決定した者の自覚から申しますと信後も煩悩や身口意の悪業は微塵程も変らぬ極悪人だという自覚が常にあります。

親鸞聖人が
浄土真宗に帰すれども真実の心はありがたし、虚仮不実の我が身にて、清浄の心も更になし」
「悪性更に止め難し、心は蛇蝎の如くなり、修善も雑毒なる故に虚仮の行とぞ名づけたる」とか
「悲しきかなや愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して定聚の数に入ることを喜こばず、真証の証に近づくことを快しまず」とか、
「さるべき業縁の催せば如何なる振舞もすべし」
等と仰言っていられるのは皆この自覚を告白せられたものであります。

勿論これは悪事をしてもよいとか、善事をする必要はないということではありません。

無碍光如来に照破せられた真実の自己を述べられたものでありますが、真実の信心を体得した人には必ずこの自覚がなければなりません、この自覚のない人は、未だ他力信心を獲ておらない者と断定することが出来ます。

 これは絶対信から生ずる自覚でありますから当然、倫理道徳の善悪を超え、社会的評価の範畴に入らないものですから、この自覚自身については社会的価値云々は全く問題にはなりません。


 しかし、前述のように、絶対の信心の智恵によって信後も少しも減りも退きもせぬ、煩悩執着や悪業を余すところなく、知らされれば知らされる程、日常生活においては随犯随懴させられ、煩悩即菩提、転悪成善となって歓喜の源泉となり、広大な仏恩に感泣しつつ全力をあげて悪を慎しまずにおれなくなり、善に向っては不惜身命の活躍をせずにおれなくなってまいります。

時の社会が、それをどのように評価しようと、倫理道徳が何と価値づけようと、そんなことに左右されることなく、真実一路、向上努力心は臨終夕ベの一念までやまなくなってまいります。

 少なくともこれは私の他力信の体験からハッキリと断言できる信念であります。

 ご指摘の拙著の文章はその前後関係からしても、余程の悪意をもって解釈しない限り
「善をつとめる必要はないのだ」とか
「悪事を止める必要もないのだ」とは、
とれないのではないでしょうか。

ましていわんや
「善をするな、大いに悪事をやれ」
と解釈する人はいないと確信致しております。

教化する人、まづ信心を決定して、そのうへにて、聖教を読み、かたらば、聞く人も信をとるべし。(蓮如上人

大鼓も撥の当りよう。


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