疑いは一生晴れないのではないのか(2つの疑い)

先生の仰せの内
他力信心の大自覚」ということが強調されていますが、この自覚は
「何によりて生ずるか」
「如何すれば自覚し得るか」の二点です。

私の今までの聴聞によれば、人間は一生涯、疑いを離れる事はできない。
法然上人は「疑い惑わしきは凡夫の常なり」
親鸞聖人は「うちまかせて凡夫のありさまに変りあるべからず」
蓮如上人は「女人の身は如何に真実心になりとも疑の心は深く、また物なんどの、いまわしく思う心は更にうせ難くおぼえ候」等によれば人間は一生疑いより難れる事のできないのは人間の原則と思います。

然るに一方『唯信鈔文意』には
「選択不思議の本願、無上智慧の尊号をききて、一念も疑う心なきを真実信心というなり」など
全く異なる立場に人間はおかれています。
これを解決するものは何でしょうか。

大切な御質問尊く思います。
「他力信心の大自覚は何によりて生ずるか」
とのお尋ねですが、私達が阿弥陀仏に救われると生じますから阿弥陀仏から賜わる大自覚です。
だからこそこの大自覚は金剛不壊なのです。
「如何にして自覚し得るか」
につきましては真剣に聞法し宿善開発すれば、どんな人でも自覚できる明らかな体験です。

 次に疑心についてのお尋ねですが、私達の疑心に二種類あることがお判りになれば、すぐに明らかになります。

一つは「あの人は泥棒ではなかろうか」と他人を疑ったり
「これはニセダイヤではなかろうか」と物を疑ったり
「ひょっとしたら雨が降るのではなかろうか」と天候を疑ったりする疑心で、
これらの疑心は人間死ぬまで毛頭無くならない疑いです。

あなたのあげていられる法然上人や親鸞聖人や蓮如上人のお言葉は、この疑いです。
仏教ではこれを疑煩悩といいまして死ぬまで無くならないと教えています。

次にもう一つの疑いは阿弥陀仏の本願(必ず絶対の幸福に救う)に対する疑いです。
「本当に阿弥陀さまは助けて下さるのだろうか」とか
「ひょっとしたら助からんのではなかろうか」とか
「これでよいのだろうか」とか
「どうもハッキリ安心できない」というような疑いです。
これらの疑いは阿弥陀仏に救われた一念にツユチリ程も残らず晴れわたります。
仏教ではこの疑いを疑情といいます。
「必ず絶対の幸福に救う」と御約束なされた通りに「絶対の幸福」を体験すれば「絶対の幸福に救う」という阿弥陀仏の御約束(本願)にツユチリ程も疑いが無くなるのが当然です。

『唯信鈔文意』の御教示はこの疑いのなくなることを仰言ったものですから、
疑いに二つあることさえお判りになれば何の矛盾も憧着もありません。

「仏智疑う罪深し」
(と親鸞聖人が仰言っているように、おそろしいのは阿弥陀仏の本願疑惑心ですから、この疑いが晴れるまで聞きぬかねばなりません。
必ず晴れる時があります。


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