器を変えても泥水は泥水

 泥水はどんな器に移しても浄水にはならない。

濾過器を通さぬ限りは泥水である。


昔、東本願寺では星谷慶縁師を新宗務総長に選んだ。

星谷師は就任にあたり

「親鸞教学の確立と組織・制度の近代化」

を謳っていたが、所詮は三森前宗務総長から星谷師に器が代っただけの事。

本願寺に充満する泥水は一向に浄化されるはずがない。


「巷には“親鸞に帰れ”といわれるが、それは原始教学に帰るのではなく、現代のさ中に親鸞精神をうちたてることでしょう」

と、もっともらしい事を言っているが「親鸞精神」の何たるかも判らぬものが、何をうち立てるというのか。


それとも葬式法事仏教を一変して「一念往生平生業成」の聖人の大精神をうち立てるとでもいうのか。

そんな事をすれば、たちまち宗務総長の首が飛ぶ。


首のすげ替えをしても中味は同じ、今こそ泥水に汚れた本願寺は

「制度・組織の近代化」

と新しい器を求めるよりも、自ら器を破壊し、器にこだわる事なく、法主を筆頭に坊主一人一人が「信心獲得する」という濾過器を潜るべく求道に身を沈め、一日も早く浄水となるべきでないか。

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