凡夫には軽そうに見えたが根の深い大問題の頻発に思う

末法濁世を截る
 今世の中では布教使と西本願寺輔教、布教使との法論で鎬を削っている。
否既に完膚なきまでに破邪し尽した状態である。

しかしこれはただに藤田明男個人の問題ではなく、全人類の大問題であることは言を俟たないのである。
 その上、本願寺末寺明徳寺住職の布教妨害事件が惹起し、いよいよ親鸞学徒の立つ秋が来たようである。
 これらの事に関して世間は、それ程大問題視せず、ウヤムヤなうちに片付けようとしている向きが強い、これこそ大問題でなかろうか。
この事について考えてみたいのである。

 昨今、提訴、○○反対運動等、日常茶飯事の如く新聞やテレビ、マスコミを賑わしているが、その実態は人命に関する公害問題もあるが、殆んどは自分たちの団体仲間そして個人の利害損得名誉の為の争いであり、それがまことしやかに世論となって大手を振ってのさばりかえっている所が悲しい極みである。
 ところが、こと宗教者の問題となると、
「宗教者は争いをせぬ者だ、人の争いをなくするのが商売、その宗教者が争うとは何事か」
とか、“清濁併呑”という御都合主義の言葉をここに悪用して批判する輩もある。
勿論現宗教々壇の争いは殆んどそれで、例えば、本願寺○○総長の椅子争い、本願寺の内部紛争等々。
これ皆論ずるに足らず。
これらは世間から罵られ笑われて至極当然のことである。

 しかし信仰の一段信心の一段ともなれば話の比重は月とスッポンの違いであり、真実とそれを離ること千万里の問題である。
このことを現代人と名のつくインテリや宗教的文盲者は片言もわからない。
これを知らせる程の徹底した信仰者もいない。
 常識で考えても、言論の自由、信仰の自由、集会の自由が認められているのに何たることかと悲憤慷慨しない方」がどうかしている。

 わが身の損得の為なら、吹けば飛ぶ様な椅子に命をかけている本願寺の僧侶には解るはずもないことであろうが。
しかし親鸞学徒においては絶対これを世間に大衆にわからせるように努めねばならぬ大使命があるのだ。

宗祖聖人の三大諍論、そしてかの安芸の大贏の三業惑乱の闘争の如く真実を伝え弘めることに命をかけねばならない。
芭蕉は「夢は枯野をかけめぐる」といったが親鸞聖人は大千世界をかけめぐり叫び続けておられる。
根の深い邪論邪道に大鉄槌を加えねばならない。


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