雑行の自力と他力について(本願寺vs親鸞会)

本願寺vs親鸞会の当日、お互いの同意のもと、法論の一切の顛末が録音された。
それが起因となって本願寺と親鸞会の一対一の文書による大諍論となった。
両氏のやりとりは回を重ねる毎に真実安心の核心に触れ白熱化した。

その後、親鸞会より発送された書面より、3カ月後の最終書面に到るまで、親鸞会より11通、本願寺より4通の書面が往来した。
信謗共に讃仏乗の縁、転法輪の因である。
願わくは親鸞会と本願寺の貴重な諍論を通して、一人でも多く、一日も早く真実の他力信心に直入し、現当二世の大益を諦得して頂きたいと、念ずるばかりである。

まず、本願寺の主張はこのようなものでした。
信心決定した後も、信心決定した人が雑行雑修することもある。これは「今後貴方は、雑行雑修を行うと思うか」との質問でありましたので、人間は生身の体故、せまいと思っていても、業因によって知らずに為すこともあり得ることを申しました。
村や親類に宗派の異なった家があれば、葬式、法要等に参列する場合があり、私も他宗派との合同の仏事に参加せねばならぬ場合があります。
その意味で申しました。
腹の据りは、「錯って脇士に事ることなかれ、ただちに本仏を仰ぐべし」であります。

それに対する親鸞会の質問は、以下のようなものでした。
「信心決定した後も信心決定した人が雑行雑修することもある。それは人間は生身の体故せまいと思っていても業因によって雑行雑修を為すこともあるからだ。
例えば、村や親類に宗派の異なった家があれば葬式、法要等に参列する場合があり、私(青雲)も他宗派との合同の仏事に参加せねばならぬ場合があります。その意味で言ったので、腹の据りは『あやまって脇士に事ることなかれ、直に本仏を仰ぐべし』です」とか
「念仏を称える以外の行を行ずることが雑行である」等と堂々と驕語なされていますが、一体、あなたは浄土真宗の雑行の本義を御存知なのですか。
そこらのちょっとした同行でさえも、貴方のような非常識なことは申しませんよ。それでも貴方は本当に輔教なんですか。
はなはだ情ないことながら貴方には浄土真宗の雑行の本義が全然判っていられないから、こんな愚言を平気で疾言できるのです。

おおよそ、雑行雑修などの言葉は『教行信証』や『御文章』その他、真宗の御聖教には、ふんだんに出て来る、いわば真宗にとってはイロハ用語であって、そのイロハさえ判らねば真宗の教義も安心も皆目判る筈がなく、そんな者に、浄土真宗を語る資格など毛頭ありません。

 いくら知らないとはいいながら、そんなあなたに指導されている末寺住職こそいいツラの皮。
「一盲衆盲を引いて火坑に入る」
の仏語を地でいっている死道員と言われても仕方がありませんよ。

 雑行も雑修も共に自力ですから他力信心獲得以後には間違っても、絶対にあり得ません。

 雑行雑修の本義が知りたければ『教行信証』に詳細に説かれていますから、今からでもよろしい、よくよく勉学なされて、先ず貴方自身、雑行雑修自力の心が廃捨するまで聞法されることが肝要です。
『教行信証』が難解で判らねば勧学にでもよくよく聞いて来なさい。
 それでもなお、雑行雑修の本義が判らねば、当方へ御一報下さい。世の中大変りしたついでに在家俗人の私が、本願寺輔教のあなたに、真宗のイロハである雑行雑修の講釈をさせて頂きましょう。

それに対して、本願寺は、このような返答でした。

 これは安心論題でなく、教義論題に入るもので「正雑二行」「助正論」にまで及ぶもので、真宗教義の中、一番難解な問題であります。
貴君は「雑行雑修の本義が知りたければ教行信証に詳細に説かれている」と言われるが、貴君の説の如く、
「雑行も雑修もその体自力」ということは教行信証のどこにも説いてありません。
又その決め手となる文拠も一カ所も出していないではないか。
「雑行雑修は自力のみを言うのか」の反問が出ます。
『教行信証』化土巻の雑行雑修の解釈からすれば、その物体は、自力も含めてすべての諸善万行(他力念仏以外の行)を雑行雑修と説かれています。
 私は寺での対談の折に
「仏号むねと修すれども
 現世を祈る行者をば
 これも雑修となづけてぞ
 千中無一ときらわるる」
という宗祖の和讃を出しています。
次の和讃にも
「こころはひとつにあらねども
 雑行雑修これ似たり
 浄土の行にあらぬをば
 ひとえに雑行と名けたり」
とある故、雑行雑修の体は、念仏以外のすべての行をさし、しかも「千中無一ときらわるる」と宗祖が力説せられていることも、よくその時申しております。

それに対して親鸞会は、こう返答しました。

今回の貴方の御手紙では、
「雑行も雑修も自力だということは『教行信証』の何処にも説いてありません」といい
「雑行雑修は自力のみを言うのかの反問が出ます」と仰言って「他力の雑行雑修もあるのだ」と放言なされていますが、こんな馬鹿げたことを堂々と文章にされるからこそ「呆狂」といわれても弁解の余地はなかろうと先便で申し上げたのです。
 続いて貴方は、その根拠を求めて「『教行信証』化土巻の雑行雑修の解釈からすれば、その物体は自力も含めて、凡ての諸善万行(他力念仏以外の行)を雑行雑修と説かれています」と『教行信証』に「他力の雑行雑修もある」と書いてあると驕語なされていますが、是非その文拠を一ケ所でも結構ですから御明示下さい。貴方はそれで真宗学を一日でも学ばれたことがあるのですか、疑わずにおれません。
 西本願寺の輔教位の頭では『教行信証』を読んでも判らないにしても、親鸞聖人の教えをねじ曲げ破壊している悪魔の正体を白日のもとに暴露したことだけは、疑う余地はないのですよ。
 これは極めて重大な問題ですから徹底的に追究し解明致しますから覚悟していて下さい。

この本願寺の僧侶は、この後、返信を出さなくなってしまったんですが、
「雑行も雑修もその体自力」ということは教行信証のどこにも説いてありません」
といっていましたが、致命的な誤りです。
親鸞聖人の教えを知らないんですね。

『教行信証』には
雑行というは正助をのぞきて已外をことごとく雑行となづく。これすなわち横出、漸教、定散、三福、三輩、九品、自力仮門なり。
とハッキリ書いてあります。
雑行というのは、自力なんですよね。

この意味が分からなかったとしても、
浄土真宗の常識として、自力を捨てて、他力に帰する
捨自帰他です。
自力が廃らずに他力に入ることはありませんので、
当然のことです。

これは親鸞会に軍配があがるでしょう。


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