現代に拝んでいい神と悪い神があるのか、西本願寺vs親鸞会の激突

親鸞会の講師の一向専念無量寿仏の布教に対して対して
西本願寺の輔教が、
現在日本の市町村にある神社の神の中には、権社の神と実社の神とが混在する故に、
我々も拝んでもいい神と礼拝してはいけない神とがある
と非難しました。

ちなみに「輔教」というのは、西本願寺の学階で、
親鸞聖人の教えに極めて詳しいとされる人に
西本願寺が認る資格です。

権社の神」とは阿弥陀仏が権も神と形をかえて祀られている神で実社の神とは死んだ人畜を神と祀っているものを言います。
親鸞会から、この西本願寺の輔教の資格を持つ僧侶に対して、このような問い合わせの手紙がありました。

貴方は「現在の日本の市町村にある神社の神の中には権社の神と実社の神とが混在する故に我々も拝んでよい神と礼拝してはいけない神とがある」と断言なされていますが、大変珍しいことを教えて頂きましたので、真宗教徒が礼拝してもよい現今の神社の名前二三社と、その祭神(神体)、所在地の都道府県等を御手数ながら具体的に御教示下さい。

これに対して、本願寺の僧侶は以下のような返答でした。

「我国に権社、実社あり、真宗教徒が礼拝してもよい現今の神社の名前二、三社とその祭神(神体)所在地の都道府県等、御手数ながら具体的に御教示下さい」
とありますが、これも当寺での質問の中、「宗祖に神祇に触れたものがあるか」の問いでありましたので、宗祖『御消息集』十一丁
「まづ、よろずの仏、菩薩をかろしめまいらせ、よろずの神祇冥道をあなづりすてたてまつると申すことこのことゆめゆめなきことなり」
の文を示し、貴殿にもそれを読んで貰いました。
それで存覚上人が『六要鈔』第六末下に
「是等皆誡事邪神有損無益於論権社者非此限就中我朝是神国也」
とあり、存覚上人はまた『諸神本懐集』に神明(伊勢天照大神)及び熊野権現の証誠殿の本地は阿弥陀如来なりとしている。
これを権社といい、実社の場合は神明ならざるものを神として祀る故それは邪神なりとし、それに事えることを誡めていられる。
然し後代になり、明治二十二年発布憲法第二十八条に信教自由が法的に確保され、終戦後には我々の戦友が祀られている靖国神社と雖も、宗教法人の神社となっている。
 然し宗祖、存覚、蓮如上人に崇神の言葉がある以上、神明を軽んずることはできません。
然し、それは我々の信仰の対象として礼拝するものでなく、信仰の対象は弥陀一仏であります。
それ故礼拝と言っても、五念門、五正行の礼拝の如き、安心、起行としての礼拝でなく、「敬う」「不軽」と言う意味での作法で世間一般通念での礼拝で、信仰の対象としての礼拝は慎まねばなりません。
 又各府県に護国神社がありますが、本県の護国神社の場合二、三年前より経営難のためか、他の神社に習って祈祷、卜占をやるようになりました。
この場合、戦死者の英霊を安置する精神に反した行為であり、礼拝するに価するか、今後残された問題であると思います。


それに対して、親鸞会は、このように返答しています。

 次に私が質問したのは、貴方が「現在の日本の市町村にある神社の神の中に権社の神と実社の神とが混在する」と明言なされているので、現今(昔のことではありません)存在する権社の名前と、その祭神(神体)と、その所在地を指摘して頂きたいとお尋ねしたのです。
 それに対して貴方はハッキリした回答しておられませんので貴方の手紙を左記の如く確認してもよろしいか、どうか、直ちに明確な御返答を求めます。
「現在の神明(伊勢天照大神)及び、熊野権現の証誠殿の本地は阿弥陀如来であるからこれらは権社である」
「現今の靖国神社も権社である」
「各府県にある護国神社も実社ではなく権社である」
 又、後日そんなことを認めたことはないと言われては困りますから、若し、これに異議があれば直ちに、それを申し出て下さい。


この後、この本願寺の輔教の僧侶からは、返信が来なくなってしまいました。

明治元年に法令で神仏分離の革命が行われ、今日の日本には権社は、一切なくなっていたことも知らず
「現在の神明(伊勢天照大神)及び、熊野権見の証誠殿の本地は阿弥陀如来であるから、これらは今でも権社である」
とか
「現今の靖国神社も権社である」
とか
「各府県にある護国神社も権社である」
と無責任な説教や法話をしてきたことがハッキリしました。

この人は地域の指導員をしていますが、
これでは近くの僧侶も大変な迷惑でしょう。

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