信心獲得しても分からない人もあるのか?(本願寺vs親鸞会)

本願寺の輔教の学階を持つ僧侶が、
「真実の他力の信心を獲得している人でも、自分が信心を獲得しているということが判る人もある。判らぬ人もある。
信心決定しておっても凡ての者が信心決定しておることを、自覚出来るものではない」
と言ったので、親鸞会の講師が、このように質問した。

貴方は「他力の信心を獲得した人には、どんな人に必ず、二種深信が立つ。
二種深信のない人は全部自力の信心で、絶対他力の信心ではない」と仰言っていられる。

全くその通り。真宗の常識ですがよく出来ました。

 しかし二種深信と言う言葉は御存知でも、二種深信とはどんなことか、貴方は御承知なのですか。
 勿論、機の深信と、法の深信のことですが「堕ちるに間違いなし」が機の深信、「助かるに間違いなし」が法の深信。
機法共にツユチリ程も疑心が無く晴れ亘りますから「深信」とか「明信仏智」とか「今こそ明らかに知られたり」(御文章)とも言われる、極めて明らかな大自覚ですが、貴方は、この大自覚の二種深信は「他力の信心を獲得した人には、どんな人にも必ず立つ」とまで断言していながら、

「他力の信心を獲得している人でも、自分が信心獲得していることが判る人もある判らぬ人もある。
信心決定しておっても凡ての者が信心決定しておることを自覚出来るものではない」
と大言なされているが、何たる大胆不敵な矛盾極まる無茶苦茶な暴言なのか。

 それでは二種深信が徹底しても判らぬ人もいると言うことになりますが、貴方はそれでも正気の沙汰ですか。
本人に自覚の出来ぬ二種深信もあると貴方は放言なされているのですが、それでは輔教どころか、呆狂だと酷評されても弁解の余地はありますまい。
 これこそ貴方が「正統なる真宗の教学を学び、正しく教えを聞いていない何よりの証拠」を、
貴方自身が暴露した以外の何ものでもありません。

 これが西本願寺の輔教であり、正意の安心に住して本願寺から任命されている布教使さまとは驚き入るばかりです。

決定、不決定ということは我々の信相ではないのか
 蓮如上人が『御文章』や『御一代記聞書』の中に、しばしば
「早く信心をとれ」とか
「急ぎて安心決定せよ」と仰言っていますが、一体、信心、安心とは、どんな心であり、誰の心なのか、貴方は御存知ですか。

安は、安定すること。
我々の心が危げなく心が落ちついて一定することを安心と言うのですが、勿論、これは他人の心ではなく自分の心なのですよ。
それが自分に判らないと言うなら風呂へ入っている者が湯加減が判らず三助に聞いているよりも滑稽至極なことになりますよ。

 サヌキの庄松同行に或る人が
「阿弥陀様は本当に我々を助けて下さるのでしょうか」とたずねた時
「お前は、まだ助かっていないから判らぬのだ」と答えていますが、当然至極のことなのです。

救われていないから尋ねるのであって、救われたら尋ねることはいらない明らかなことが信心決定した者の大自覚なのです。
いわゆる二種深信なのです。

 貴方は『領解文』をあげられたことがありませんか。
『領解文』は、如来聖人の御前で自己の赤裸裸な信心を告白しているものですが、その中で
「タノム一念のとき往生一定、おん助け治定」
と告白していますが
「往生一定」とは、どんな心境か。
「おん助け治定」とは、どんな覚悟か、貴方は判っていられるのか。
往生一定」になっても判らぬ本人があり得るのか。
「おん助け治定」になっても無自覚な人があり得るのか。
お尋ねしたい。

 朝夕『領解文』を述べながら
「論語よみの論語知らず」
「聖教よみの聖教知らず」で、
どんなことを自分が告白しているのか、何も判らず、ただ蓮如上人の口まねをしているのですか。

 本願寺の布教使なんて哀れなものですね。

 若し、他力信心の領解まで嫌い「仏智満入」とか
「行者正受金剛信」(正信偈)とか
「与韋提等獲三忍」とか
「機中に印現する」とか
「自督の安心」とか
「信楽開発」とか、機受の信相を説かず、決定心を排斥すれば一生涯不決定をもって安心としなければならなくなりますよ。

 また、決定するとか、不決定と言うことは我々のことではないと仰言るならば十劫安心の異安心になりますよ。よろしいか。

 あくまでも決定、不決定と言うことは我々の信相であり自覚であることは浄土真宗の定説ですから
「信心決定した人でも、決定した自覚の無い人もある」
等と言う馬鹿げたことは絶対にあり得ないのですよ。

こんな浄土真宗のイロハさえ判っていないから
「私には信心決定したと言うことはありません」
などと憶面もなく貴方は平気で高言出来るのです。

 一体貴方は
「信を取らぬによりて悪きぞ。ただ信を取れ」とか
「人の信なきことを思召せば身を切り裂くように悲しきよ」とか
「信も無くて人に信をとられよ、信をとられよと申すは、我が物を持たずして人に物をとらすべきという心なり。人承引あるべからず」
の『御一代記聞書』の御金言や
「まことにもって坊主分の人に限りで信心のすがた一向に無沙汰なりと聞えたり。以ってのほか歎かわしき次第なり。」(四帖七通)
「近年仏法の棟梁たる坊主達、我が信心は極めて不足にて、結句、門徒同朋は信は決定する間、坊主の信心不足の由を申せば以ってのほか腹立せしむる条、言語道断の次第なり。
已後に於ては師弟ともに一味の安心に住すベき事」(四帖八通)とか
「近頃は大坊主分の人も、我は一流の安心の次第をも知らず、たまたま弟子の中に信心の沙汰する在所へ行きて聴聞し候人をば、殊のほか説諫を加へ候ひて、或は仲を違いなんどせられ候あひだ、坊主も、しかじかと信心の一理をも聴聞せず、また弟子をば斯様にあひささへ候あひだ我も信心決定せず、弟子も信心決定せずして一生は空しく過ぎゆくように候こと、誠に自損々他の咎のがれ難く候。あさまし、あさまし」(一帖一通)
等の蓮如上人の御悲歎を貴方は何と味わっていられるのか。

 それでも貴方は
「オレには信心決定したということはない。それがどうした。信心決定なんか我々凡夫に出来るものか」
と己れの不信心を誇言して、はばからないのですが。

これによって、本願寺の僧侶は絶句してしまった。
信心決定しても自分で分からない人はないということを認めたということであろう。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント