親鸞聖人は他人を攻撃されなかった?

私は浄土真宗ですが、我が祖師親鸞聖人は、他人の信心をあれこれ非難したり、攻撃されたことは決してなかったと聞かされています。
ひたすら自己の信心を深め、自己を凝視して一生通されたお方と信じていますが違うのでしょうか。

そういう人は、浄土真宗の信者だといっても親鸞聖人という御方を知らない人です。
少しは知っていても聖人の一面だけしか知らないのです。
知られないというよりも知らされていないといった方がよいかも知りません。

 剣をふりかざして殺しに来た弁円に対しても御同朋御同行とかしづかれた親鸞さま。
無謀な権力者によって流刑に処せられても「これなお、師教の恩致なり」と微笑された祖師。
冷酷な日野左ヱ門の仕打ちにも怨まれず門前の石を枕に雪を褥に念仏なさった聖人しか聞かされていないからだと思います。

 事実、世間では慈愛溢るる阿弥陀仏の化身のような親鸞聖人しか伝えられていないことも私は知っていますので、疑問も一応肯定できますが、それらは断じて聖人の全部ではありません。

『教行信証』という親鸞聖人の主著には、破邪の利剣を振りかざして群敵の中におどりこまれている阿修羅の如き聖人のお言葉が数多くす。
一例をあげましょうか。
『教行信証』六巻の中でも最も心血を注がれた『信巻』の冒頭には次のような凄い文章があります。
「しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて、浄土の真証を貶し
定散の自心に迷いて、金剛の真信にくらし」
「末代の道俗」と仰言ったのは「今日の坊主や在家の人」ということです。

「近世の宗師」とは「一宗一派の師匠となっている坊主達」ということです。

「自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す」とは
「我々の心が阿弥陀仏で、その外に阿弥陀さまはいないのだとか、我々の心の外に極楽浄土などはないなどといって仏法をネヂ曲げ、仏法を破壊しているではないか」ということです。

「定散の自心に迷いて金剛の真信にくらし」と仰言ったのは
「共に阿弥陀仏を礼拝し、念仏を称えていても阿弥陀仏の本願を体得している者は少しもいないではないか。
みなニセ者ばかりで阿弥陀仏を悲泣させている者ばかり、情けないことではないか」
と同じく念仏している同僚の信心に対しても、手きびしい断案を下していられます。

 これを通釈しますと、
「今日、日本には多くの坊主も在家の人もいる。
中には一宗一派を開いた程の相当の坊主もいる。
例えば、天台宗を開いた伝教、真言宗を開いた弘法、禅宗を開いた栄西や道元、或いは法然上人を攻撃した栂尾の明恵、笠置の解脱などの一切の聖道自力の坊主共は釈尊の仏説をネジ曲げて我々の心が阿弥陀仏であり仏であるとか、弥陀も極楽浄土も我々の心の外にはないのだと放言して、真実の仏法を攻撃し破壊している。
何たることか。
それだけではない。
折角、宿善に恵まれて阿弥陀仏の本願をきき念仏を称えていても、真実の信心を獲得している者は殆んどいないではないか。
みんないい加減な自力の信心に腰かけて、死んだらお助け、死んだら極楽とねとぼけている者ばかりで、現在救われた叫びを上げているものがいないではないか」
ということですが、何という痛烈極まる破邪でありましょうか。

 自己にもきびしかった聖人は、他人の信心に対しても又、きびしかったお方であることがお判りになったことでしょう。
阿弥陀仏によって永久の闇より救われた者にとっては今なおコンコンと深い迷の夢を見続けている人々をみると何とか早くめざめてほしいと願わずにおれないから大声疾呼せずにおれないのです。
浄土真宗なら、この聖人のきびしさに常に打たれつつ、ひたすら追慕するものです。

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