雑修とは何か

雑行のことについては、雑行とは何か
お答えしましたので次にお尋ねの雑修とは何かについてお答え致します。

 浄土真宗では、朝夕の阿弥陀仏の御前での『正信偈』や『御文章』の勤行を読誦正行といいます。
そして阿弥陀仏やその極楽浄土を思念することを観察正行といいます。
一心に阿弥陀仏一仏に向って礼拝することを礼拝正行といいます。
又、念仏を称えることを称名正行といいます。
又、阿弥陀仏一仏を、ほめたたえ、その仏前に種々の供養することを讃嘆供養正行とい二ます。
以上の読誦正行、観察正行、礼拝正行、称名正行、讃嘆供養正行を五正行といいます。
これらは尊い大切な行でありますから五つの正行といわれます。

 ところが、これらの正行を次のような心でやっていると雑修といわれ嫌われ捨てよと仰言るのです。

 どんな心かといいますと
「これだけ朝夕、キチンキチンと欠かさずお勤めしているから地獄へは堕ちんだろう」とか
「これだけ阿弥陀仏一仏のことを思い続けているのだから悪い処へは行かんだろう」とか
「これだけ一心に阿弥陀仏一仏を礼拝しているから極楽間違いなかろう」とか
「これだけ念仏称え続けているのだから助けて下さるだろう」とか
「これだけ阿弥陀さまをホメ、法座に他人も誘い、珍しい物をお供えして供養しているから地獄へは堕されんだろう」
というような心を持って、この五つの行をやっている人の、その行を雑修といいます。
また、この五正行をやっている時も、やった後でも今のような心の出る人はすべて雑修をやっていることになります。

 このような心は信前(まだ阿弥陀仏に絶対の救済にあっていない時)は
毛頭無くなりませんから、信前のこれらの行為は一切が雑修になります。

 しかし、信後(阿弥陀仏の願力不思議によって大安心に救われた後)は、
もう大満足に救われていますから自分のやっている、これらの行為について
「これだけしているのだから助かるだろう」とか
「これだけやっているのだから大丈夫だろう」
というような心微塵ほども出て来ません。

 だから信後は絶対の幸福に救われた喜びから御恩報謝の気持一杯で、
これらの行為をせずにおれなくなります。
また怠惰な己れに懺悔せずにおれなくなります。

 されば信後には、間違っても雑修をするなどということはありません。
他力の雑修なんか、言葉もありません。
こんな馬鹿馬鹿しい非常識極まることをいうのは、
信心が分かっていないということは勿論ですが
仏教学、真宗学のイロハも判っていない証拠です。

 最後に五正行は、一切の諸仏や菩薩や諸神を捨て果てて、
阿弥陀仏一仏に向っての行為であるところは大変尊く正しいことなのですが、
それをやる者の心がけが先述のように悪い自力の心でやっているので
雑修と嫌われ捨てよと教えられることをよくよくかみしめて下さい。
この他にも雑修といわれるものがありますが今回は雑修の本義を述べました。

 どうかこれを機縁に、雑行雑修自力の心の完全に捨たるまで
聞法して頂きたいと念ずるばかりです。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント