仏教で「知識」とは(仏教用語)

 普通知識と言えば、色々な物事に対して知っていることがら、
あるいは、事物に関するはっきりした認識、と理解されている。
そして学問、教養のある人々を知識人とか知識階級とよんだりしている。

 しかし仏教で使う場合は全く意を異にする。
我々に仏の教えを説き聞かせてくださる人を仏教では、知識と言う。
現代的に言えば仏教の指導者のことである。

 いかに素晴しい仏の教えがあっても、それを我々に教え導く知識がなかったら、
我々は仏教を知ることは出来ない。
たとえば、Aが難病にかかって苦しんでいたとする。
どこへ行っても、誰に聞いてもこの病気を治す医者がいない。

 ところが、一粒飲めば、必ずこの難病をケロリと治す、素晴しい尊い薬があるのだ。
Aはこの薬を飲めば必ず助かる。

しかし、いかに素晴しい薬があっても薬のあることを教えてくれる人がなければ、病気は治らない。
薬はあっても無きに等しいことになる。
だからこの薬の存在を教えてくれる人がいるかいないかで、Aの生きるか死ぬかが決定する。
この薬を教えてくれる人にあたるのが、知識であるから、いかに知識が大切であるかが判るであろう。

ただ、単に知識と言っても善知識と悪知識の二つがある。
釈尊は仏蔵経の中に、
「一盲衆盲を引いて火坑に堕つる」
と教えられ、善導大師や親鸞聖人、
その他多くの方々も善悪両知識を分けられ、
選択を厳しく教えておられる。

 では善知識悪知識とは、どういうことか。
まず悪知識とは、字の示す通り、悪い仏教の先生、
つまり一応仏の教えは説いてはいるが仏の真のみ心も判らず、
仏の教えをねじ曲げて伝える人である。

 たとえば、
「念仏を称えていれば助かる」
「我々は十劫の昔に助かっているのだから今さら聞き求める必要はない」
「諸神、諸仏を拝んでもよい」
こんな事を教えるのはみな悪知識である。
人々を幸せに導くどころかこの世も未来も不幸に追いやる恐ろしき知識である。
それに対し、善知識とは、阿弥陀仏に救われて仏のみ心を正しく我々に教え、
絶対の幸福まで導いて下さる人であり、命のあるうちに阿弥陀仏に救われ、
魂の解決をしておかなかったら、後生に一大事がひき起こるから、
一日も片時も急いで信心決定せよ、と叱咤激励して下さる人である。
断じて「どなた様の説法も同じ」ではないである。

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