法論と法難と

 その昔三日二夜を通して時の主上の面前で法然上人が、
浄土門の主張、衆生の根気、念仏の限りない御力を論じ尽されたといわれる大原問答は
今に人々に語り伝えられ、いいつがれている事は余りにも有名なことである。

いかに三塔の修業者も聖道門の専門家も、そこを通り越して、遂に撰択本願念仏の真髄にふれ、
凡機のまま救われた法然上人には火は紅くて熱いと仰せられるより明らかな仏凡一体の境地の説明は明々白々であり、
たとい三日が十日一ヵ月でも御主張の変ることもなければ曲げられる筈もなかった。
そして並みいる多くの傍聴の人々の耳にも上人の御主張の
いかに真実であるかに深い感動とおそれをなさしめたに相違がないと思われて勿体ない限りである。

 親鸞会は本願寺派を名のる講師、輔教、そして多くの僧侶より法論をいどまれている。
さてこそよき御縁到来かと手ぐすねひいて、
「では始めましょう、これも後生を案ずる多くの同行の方々の為でもある、いざ…」
と構えると最後まで真正面からぶつかって法論をなされたためしがない。

 福井でも、滋賀でも、富山でもさてこれからが大切な後生の一大事の要のところと思いつめると、
いやそれどころか真宗の入門のところでふらつき春先の雪だるまの様に消えてしまう。
悲しいことである。

たとい間違いであれなぜとことんまで法論をできないのであろうか。
お互いに五欲の身、逆謗の屍であってみれば法論をするのが窮極の目的でなく
真実の肝要骨目を知り不退転の安心を得なければならないのでないか、
墓地の争いや勧学や講師の位争いとケタが違うことは一寸仏法を聞いたものなら、
そして後生の一片の心配を持つ者なら誰でも気付いていることである。

 さる寺の葬儀の様子を見ると、七条を着た僧侶が十人も並んで棺を丁重に見まもり
読経が吾々在家のそれより何倍も長々となされたが、
しかし、まさかそれが浄土往生の種にもなるまいに…情ない事だとつくづく思ったことである。

 さて春の雪だるまの様に消えたと思った法論はどうやら最近法難に変ってきたようである。
それこそ大原問答の後に法論真実で勝負にならなかった叡山三塔の山伏どもが連合して起こした
かの承元の法難のように今ここに僧侶、宗教家にあるまじき法難が起きようとしている。

 親鸞学徒の真剣な活躍に対して各地でこれに妨害を加えることが起こっている。
民主主義、自由の世の中に不思議ではあるが、これは事実である。
そして或いは住連、安楽のような事件がないかとどこかに法論、聞法の本筋でない
ひもの付け所を探していると考えるのはひが目か。

 末寺の建立はおろか修理もままならず、
それどころか経営も不可能に近くなり、
自らの本領を捨て観光化か、公民館化かそのことで余命をつなぐものが、
信心開顕の肝要に朝夕命をかけている親鸞会に対して
法難の権化と化するのは一体何ということであろうか。

 まこと浄土真宗の門徒は親鸞聖人の仰せの如く、
火の中をわけても…法難などはものの数かは、
と自らに鞭打ちこの法難に聞法精進しなければならない。

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