なぜ破邪顕正に徹し切らないのか

 受け難き人身を受け、遇い難き善知識に遇わせて頂くほどの幸せは他にない事は今更いうまでもないが、
浄土真宗の門徒は果してどれほどその幸せを感じているだろうか。
親鸞聖人の血を吐く雄叫びにどれだけ相応しているだろうか。

「破邪顕正せざる者は仏弟子に非ず、仏の怨敵なり」(涅槃経)
を金科玉条として真実開顕に挺身された親鸞聖人を絶対無二の善知識と仰ぎ、随順してゆくのが浄土真宗の門徒である。
ならば当然「破邪顕正」を唯一の旗印にかかげて苦悩の巷に突入して自他ともに信心決定に近ずけなければならない。
そうしてこそ真実を知る者の喜びといえよう。

 ところが真宗の道俗のほとんどは、
「私にはそんな大それた破邪顕正などできない」とか
「宿善さえあれば勧めずとも仏法を求めるようになるのだから、相手に縁が来るのを待つしかない」
といって一向に破邪顕正しようとしない。

たとえ殊勝にも破邪顕正してもちょっとカベに突き当ったり、経済的負担が重なってくるとたちまち挫折してしまって続かない。
そして人がどんなに迷信におぼれ邪信に迷うて不幸になっても見て見ぬ振りをして自分だけいそいそと聞法の場へ出かけていき、
「こんな我利々々亡者をお助けの阿弥陀仏」とソラ涙を流して喜んでいる始末である。

 これでは万劫聴聞しても信心決定はおぼつかない。
破邪を厭い、顕正を嫌う者は仏法者でもなければ求道者でもない。

 見よ!あの悲壮な目蓮尊者の殉死を。
邪教徒をして憎悪と敵意を呼び、リンチ殺人を誘発したあの烈々たる破邪顕正こそ真の仏弟子の勇姿ではないか。
「たとえ手石、刀杖で打擲され、殺されようとも一句の法門を弘めるためなら死んで本望です」
と大覚悟をして布教の途に出た富楼那尊者こそ真の菩薩ではないか。

そして今日、「たとえ一人になってでもいい、知己を千年後に求めてこの真実を叫び続ける」
と大自覚なさる親鸞聖人も又、破邪の闘士、顕正の菩薩となっておられるのである。

 今こそ真宗の道俗は、すべからく親鸞聖人の雄叫びに随順して釈尊、親鸞聖人の御教えに相応せねばなるまい。
相手の仏縁、経済的負担で破邪顕正を躊躇している時ではない。
否、躇躇しているから不活の怖れがあり破邪顕正に徹し切らないから金剛の真心が徹到しないのだ。
「道信の家には衣食あり」で破邪顕正に邁進する者に不活の怖れなど断じてないのだ。
「まことに一人なりとも信を取るならば身を捨てよ、それはすたらぬ」
の蓮如上人のお言葉をよくよくかみしめ、
浄土真宗の親鸞学徒はいよいよ聖使命達成に努めなければならない。

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