親鸞聖人の大遠忌

 思えば親鸞聖人は、当時、平安から鎌倉へ時代が移りゆく時、いわゆる源平が激しく鎬をけずる不安と混乱の世にあって、仏法こそが絶対の安心と無上の満足をもたらすものと固く信じられた。
そして天台の教えに若き血潮をたぎらせ、二十年間決死の御修行をあそばされた。
しかし、天台宗等の自力聖道の教えでは煩悩具足の凡夫は絶対に助からぬ事を体験なされたのである。
真実を渇望されてやまなかっただけに、その失意たるや想像に余りあるものであったに違いない。

 ところが法然上人とのめぐり合いは、聖人を再び生きかえらせた。
枯渇しきった聖人の心は、法然上人の御口から流れ出る法水を貪欲なまでに求めずにおれなかった。
そして二十九才の春、聞即信の一念に阿弥陀仏の救いに値われ大安心の幸福、大満足の慶びを味わわれたのである。

 煩悩具足、罪悪深重の我々凡夫の助かる道が顕らかになったのは実にこの時であった。
聖人のこの熾烈な求道そして不可思議な体験がなければ、我々の人生究極の目的は永久に定まらなかったであろう。
時代は異なっても不安と混乱はいつまでも続く限り、一時も早く安心立命の世界へ雄飛せねばならない。
その為には「信心決定」以外に絶対に無い事を聖人の鮮やかな体験により知らされた我々は何という果報者であろう。

 その上、聖人は他力真実の信心の妙味を命をかけて、友達といさかいをし、御長男善鸞を勘当してまで開闡して下された。
無碍の大道を歩まれた聖人の生き方は、全人類に人生の最高指針を示されたまさに世界の光である。

 ところが今日、猫も杓子も「親鸞聖人」を語り、書き、世に弘めているが、聖人のこの最高無上の信心決定の体験を明らかにし、それを勧める者がどこにあろう。
聖人を念仏の奨励者にしたてる者、道徳の権化にまつる者等、余りにも聖人の真意は誤解、曲解、ネジ曲げられているようだ。
甚しきは聖人御生誕八百年を良い事に金儲けを企む者が真宗僧侶の中にいるような始末。
言語道断である。

 当に誤まれる聖人のみ教えを正し、真意を顕らかにすべき無上の勝縁である。
この勝縁を迎え、参加できることは何と勿体ない事であろう。
一刻も早く信心決定し、本当の親鸞聖人のみ教えを全世界に伝播するよう、親鸞学徒一同心を引き締めねばなるまい。

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