信心獲得したらハッキリするものかどうか

信心決定の自覚は誰にでもハッキリするものだとのことですが、ハッキリする者も千人に一人位はあるかも知らないが、大体はハッキリしないのが本当らしい。故曾我量深師に直接聞いて見たのですが、
「信心を獲得したと、そんなにハッキリ自覚できるものではない。
知らず知らずいつとはなく尊い心境になって行くものだ」
との仰せでした。

大変大切な問題です。
信心獲得するとハッキリするものか、どうかということは真実の信心を求めて日夜聞法精進していられる人々にとっては必ずぶち当る最大関心事であります。しかも「御本願をきくばかり」
「ただ有難うございます」
「ただ念仏よりありません」
と聞かされている浄土真宗の現状では尚更です。

 これはひとえに信心決定、信心獲得とは如何なることなのかについて全く無知なところから起きて来る問題なのです。
 信心獲得するとはどんなことなのかといえば
「必ず絶対の幸福に救うと誓われた御約束通り阿弥陀仏に救われ、弥陀の本願は私一人をこの身に救う為であった」
と慶喜せずにおれない明らかな明らかな体験なのです。

 その時の喜びは
「この信心を獲るを慶喜という。慶喜する人は諸仏に等しき人と名づく。
慶はうべきことを得て後によろこぶ心なり。信心を得てのちによろこぶ心なり。
 喜は心のうちにつねによろこぶ心絶えずして憶念つねなるなり。
踊躍するなり。踊は天におどるという。躍は地におどるという。
よろこぶ心のきわまりなきかたちをあらわすなり。
信心を獲たる人をば分陀利華にたとえたまえり」(唯信鈔文意)
の親鸞聖人の御言葉そのものズバリです。

 ハッキリ救われたればこそ、このような大慶喜心が湧き出ずるのです。
その他
「慶喜と申し候ことは他力の信心を獲て往生一定してムズとよろこぶ心を申すなり」(御消息集)
「踊は天におどるという。躍は地におどるという。よろこぶ心の極まりなきかたちなり。
(乃至)これは正定聚の位をうるかたちをあらわすなり」(一多証文)
 ハッキリする文証はあげればキリがありませんからこれ位にしておきます。
 ハッキリしなければ安心ができません。
安心できねば、一生涯、不決定、不安で暮さねばなりません。
 ハッキリしない人はまだ救われていないからです。

「雑行を修し雑心をこのむ者をば凡てみな照らしおさむとはいわず。
護らずとのたまえるなり。
これ即ち本願の行者に非ざる故に、摂取の利益にあずからざるなりと知るべし」(一多証文)
「全て雑行雑修の人をば皆照らさず。摂めまもりたまわずとなり。
 摂取不捨の利益にあずからずとなり。本願の行者に非ざる故なりと知るべし」(尊号真像銘文)
これは信心決定した者だけがハッキリ助かるのだと仰言ったお言葉です。
曽我師がいわれようが何人が云われようが、ハッキリ自覚のない信心は絶対に他力真実の信心ではありません。
ハッキリ安心できるまで進みましょう。


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