仏教で「知識」とは(仏教用語) 普通知識と言えば、色々な物事に対して知っていることがら、 あるいは、事物に関するはっきりした認識、と理解されている。 そして学問、教養のある人々を知識人とか知識階級とよんだりしている。 しかし仏教で使う場合は全く意を異にする。 我々に仏の教えを説き聞かせてくださる人を仏教では、知識と言う。 現代的に言えば仏教の指導者の… トラックバック:0 コメント:0 2020年09月20日 続きを読むread more
ミケランジェロが彫刻にかける思い ミケランジェロが一つの石像を彫刻した時の事である。 でき上った後も更に多くの日数をかけて石像のこまかい部分、点までも、ひとつひとつ補工していった。 これを見て友達が 「前に来た時、もう完成したと言っていたじゃないか。 そんな細やかなことに、そんな長い日数をかけるなんて意味がないじゃないか。 それだけの時間があったら別の作品がで… トラックバック:0 コメント:0 2020年08月24日 続きを読むread more
仏教は出て聞け? 昔の人はこう言っていました。 無宿善の機(助からん人)A「仏法もトタン屋根の雨みたいになったらいいんだがな」B「つまりどういうこと?」A「家の中に居ても聞けるということさ」古人いわく──仏法と萱屋根の雨は出て聞け── ところが最近は、ユーチューブなどで、家でも浄土真宗の法話が聴聞できるようになってきています。 例えばこんな仏願の生… トラックバック:0 コメント:0 2020年06月26日 続きを読むread more
本物の仏教学習がオンライン化(仏教ウェブ入門講座) 仏教を学ぶといえばその昔、江戸時代は寺で学ぶことができました。 それが寺では葬式や法事ばかりとなり、今では寺で仏教を聞くことはめったにできません。 そこで、本で学ぶことになりますが、仏教の本は、断片的で、初心者向けのものは間違っていることもあります。 専門書は歴史的な要素が強くなり、仏教の教えはあまり分かりません。 現代では… トラックバック:0 コメント:0 2020年06月12日 続きを読むread more
金を埋めている人 あるケチン坊な男が自分の財産をしっかり握っていたかったので自分の持っている物全部を売り払って大きな金の塊に換えた。それを庭先に穴を堀り、その中へ隠しておいたのである。それから絶えずそこへ行ってはしげしげとそれを眺めていた。 ところがその事を使用人の一人が知って主人の留守の間に盗み去った。ケチン坊は戻って、空っぽになった穴の中を見て頭の… トラックバック:0 コメント:0 2020年05月27日 続きを読むread more
仏教の若い講師たち(若鷲よ大きく育て) 「私ははじめは親鸞会を批判の目で見ていた。しかし自分が若い時、何を思い何をおいかけていたかということを考えてみると、親鸞会の人達の進んでいる道がいかに素晴しいことであるかに気付いた。 親鸞会の仏教の講師が一斉に布教にとびたったが方々で大変な反響を呼んでいる。ある人は「極楽総出じゃ」と言って感嘆し、ある人は「ただ人ではない」と驚いている… トラックバック:0 コメント:0 2020年05月02日 続きを読むread more
自分の魂の責任は自分でもて もしあの時あの会社に入らなかったら、もしあの時あの人にあわなかったら、もしあの時親鸞聖人の教えに出会わなかったら。 今私が親鸞聖人の真実の教えを聞く御縁に恵まれたことをふり返って見るとき、何の運命のいたずらかと、ただ不思議に思うしかない。 いつかどこかで一枚の歯車のカミ合わせが狂ったとしたら現在の自分はあったろうか。 これ… トラックバック:0 コメント:0 2019年10月12日 続きを読むread more
ただ弥陀の本願に順ずべし 数ある宗教の中でなぜ仏教だけが真実の教えであり、なぜ阿弥陀如来の本願によらなければ我々は助からないのか。この事に疑問をいだく人は少くない。 現代の科学の発達にはめざましいものがあり、原子の直径が百億分の三ミリであることまで論証されている。この原子を三ミリの虫とした場合、結核菌は十キロメートルの虫にも及ぶといわれるからまさに極少おど… トラックバック:0 コメント:0 2019年07月14日 続きを読むread more
全力で仏教を伝える 岐阜にて浄土真宗の御法座、 そして降誕会と暑さきびしい中本当に申し訳ありません。 私一人の為に命がけの御苦労を頂きながら少しも真剣になれない自分に泣かされます。 善知識がお帰りのお車にお乗りになった時、またしばらくお別れかと思ったらさびしさで胸か一杯でした。 でも善知識から 「顕正に全力をあげよ」と聞き、そうだ早く頑張ろうと元… トラックバック:0 コメント:0 2019年06月04日 続きを読むread more
レッテルに騙されるな 先日師範卒業30周年記念同級会が開かれ、恩師五名を招いたが夫々の旧師の挨拶に曰く 「もう齢80才の私はなお健康な体を大切にして、平均寿命70才以後の御奉公をいたします」 「平均寿命70才に達した私はやがて富山の煙と相果てます」 「平均寿命に手とどきの私は……」云々と 何れも何れも出ていく人生の最後の旅路を思い……死… トラックバック:0 コメント:0 2019年06月01日 続きを読むread more
尊い真実にあえました。有難う…… 尊き浄土真宗の先生のご本、まず御仏さまにお供えしてから拝読させて頂きます。 どんな新聞にも比べ難いきびしいきびしい魂のこもった御金言に感涙にむせびます。 大概の人は憎まれないようにするのに、先生はたとへ他人に悪くいわれようと 「そんなことはどこ吹く風」 と浄土真宗の法話にて、 御仏の真実を堂々とお話下さる偉大な御心中、 真… トラックバック:0 コメント:0 2019年05月14日 続きを読むread more
柏原祐義講師ともあろう人が 柏原祐義講師ともあろう人が なぜにあのような言辞を機関紙に掲載しなさるのかと審々。 たとえ大谷派(東本願寺)の講師であっても根性玉は汚い宗派根性をさげているのでしょう。 親鸞会の先生のご著書といい言説といい寸分も親鸞聖人の祖意に違うたところはありません。 よくぞあれだけ堂々と述べられたことよと感服の外ありません。 こんな素… トラックバック:0 コメント:0 2019年05月01日 続きを読むread more
ハッキリしないのは救われていない証拠だ 信心決定 仏教とはブッダの説かれたものであるがブッダ一代の教えは阿弥陀仏の本願一つを説く為であった。 故に仏教を聞くということは阿弥陀如来の本願を聞くということである。 仏教を信ずるということは阿弥陀仏の本願を信ずるということである。 では阿弥陀仏の本願とは何か。 阿弥陀仏の約束、願いということであるが弥陀はどんな願いを… トラックバック:0 コメント:0 2019年04月28日 続きを読むread more