今度だけは 仏法のために死なせてくれ・求法太子

 昔、ある国王が「太陽が出ている間に走り廻った土地を、その者に与える」というフレを出した。一人の百姓が早速志願した。彼は太陽が地平線に顔を出したのを合図に出発点の丘を勇躍して飛び出した。  太陽が沈むまでに出発点へ帰りついていなければ一日の努力が水泡になる規定である。一歩でも遠くまで足をのばして広い土地を得ようとする欲によって、彼の力…
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信行両座の諍論とは(三大諍論)信心か念仏か

親鸞聖人が法然上人の御弟子であった時に、その法友達と三度も激しい諍論をなされたということを、しばしばお聞きしますが、どんなことで諍論なされたのでしょうか。 第三の親鸞聖人の諍論は信行両座の諍論といわれているものです。これは、折角聖道自力の仏教が方便であることを知らされて多生にもあい難い阿弥陀如来の本願に遇い、同じく阿弥陀如来一仏を礼拝…
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仏教は何のためにあるのか

本願寺の責任といえばそれまでであるが、仏教を誤解して葬儀などの死人のものとしている者が世間には余りにも多い。 だから私は仏法をことさら求めなくてもよい。人よりは真面目な生活を送っているし、誰とも仲良く、ケンカ争いもしない、又家庭も円満におさまっているからたとえ死んでもそんな悪いところへは行かんだろうという人をよくみかける。  しかし法…
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信心同異の諍論とは

親鸞聖人が法然上人の御弟子であった時に、その法友達と三度も激しい調論をなされたということを、しばしばお聞きしますが、どんなことで諍論なされたのでしょうか。 聖徳太子を尊敬され「和をもって貴しと為す」の精神で一生貫かれた親鸞聖人に激しい大諍論が三回もあったということは信じられないことかも知りませんが事実なのです。これを聖人の三大諍論とい…
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信ずるということ 知るということ

 あの人ならと信じていたのに裏切られた、などということをよく耳にする。さも意外なことのようにきこえるが考えてみればありうることなのである。 信ずるという言葉は、疑いという言葉と表裏一体となって成立している言葉であるからである。疑いがあるから信ずるというのである。  ちなみに、明日の天気はと問われれば、雨だと思うとか、曇だと信ずるとしか…
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物質天国は幸せ?

昔、国立統計数理研究所が日本人の宗教的態度について世論調査をしたところ、(同じ調査をフランスが欧米八ヶ国で行った)「この世に神や仏がいるか」の問いに、肯定するもの欧米は70〜80%、日本は24%だそうで、次いで「この世は幸福になって来たか」の問いに、肯定は欧米が30〜40%に対し日本は70〜80%だった。  詳しくは判らないが大変面白…
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往生について浄土真宗の祖師・親鸞聖人の闘い

死後の救いか現在救われるのか。体失不体失往生の諍論に聞く  親鸞聖人を柔和な方のように思っている人が多い。確に聖人には慈悲の権化のような面もあるが、それよりも秋霜烈日たる峻厳さこそ聖人の真面目と私は憶う。聖人の御一生は正に破邪の法戦の連続であったといって過言ではない。親鸞聖人の御降誕を縁として、その法戦の一つ、体失不体失往生の諍論を書…
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「天上天下唯我独尊」とは

ブッダは誕生なされた時に「天上天下唯我独尊」と言われたそうですが、仏教は、そのような独尊的な教えなのでしょうか。  大変、世間一般に誤解されている仏教の言葉です。確かに、釈尊が誕生された時に、天と地を指さゝれて「天上天下唯我独尊」と叫ばれたと記録されています。 これを多くの人々は「この世で一番、偉くて尊いものは自分一人である」と釈尊が…
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まず心の臨終を

浄土真宗には二度の臨終、二度の葬式があると聞きましたが、どんなことでしょうか。  二度の臨終といいますのは、心の臨終と肉体の臨終のことです。故に、二度の葬式というのも同じく心と肉体の葬式をいいます。 親鸞聖人は、阿弥陀如来の本願を信ずる直前に我々は一度死ぬのだと仰言っています。その直後、生きかえった時が阿弥陀如来に救われた時であると…
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親鸞聖人と柴田勝家

まことの厳しさと私情の恐ろしさ親鸞聖人は、真実の為には吾子をも勘当 建長8年5月29日、84才の親鸞聖人が、遠く関東に布教していた吾子善鸞に義絶状を送り「あさましさ、申すかぎりなければ、いまは親ということあるべからず。子と思うこと、おもいきりたり。かなしきことなり」と親子の縁をキッパリと断ち切っておられる。  善鸞が、「わしは父、親…
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阿弥陀如来に抱かれて尊き親鸞学徒の皆様へ

「生き仏、如何に攻撃受けようと ビクともしない金剛心」 尊き偉大なる善知識の御心中を歌わせて頂きました。尊き親鸞学徒の皆様、この広い世界に善知識と名のつく人は一体どれだけ居なさることでしょう。生きる意味は信心決定ただ一つあるのみ、後生の一大事程新しい生きた言葉はありません。 その新しい広大なる南無阿弥陀仏の真実を、夢の世界にたわむれてマ…
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ねこもしゃくしも 歎異抄というが正しく解説した唯一のサイトは……

歎異抄(たんいしょう)は明治の傑物、清沢満之が世に大きく紹介し、以後誰も彼も親鸞聖人といえば歎異抄、歎異抄といえば親鸞聖人とイメージが湧く程やかましくなっている。 ところで、先日自ら学あると自負している某浄土真宗の僧侶とたまたま邪教の話などから歎異抄の話に移るに及んで驚いた。 それは、あの歎異抄を読んで「ただ念仏して弥陀に助けられ……
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歎異抄の解説スタート

歎異抄(たんいしょう)を知らずして仏法を語ることなかれといってもオーバーでない位に歎異抄が愛読され、話され、また数えきれない位に解説書が本屋の店頭を賑わしている。 しかし歎異抄は非常な名文であることと、他力信心の極地をあらわしたものである為、あぶない箇所が多く、カミソリ聖教といわれ蓮如上人は信仰の浅い者の為にはこれを読ませてはいけない…
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浄土真宗の祖師・親鸞聖人の流刑の真因とは

 浄土真宗の祖師、親鸞聖人は35才の時、住みなれた京都から追放され、越後(今の新潟県の直江津)へ罪人として流刑になったことは周知の事実である。そうであれば、その理由は何んであったのであろうか。親鸞聖人がどんな悪事をなされた結果なのであろうか。流刑という極刑にあわれた真の原因は何か。親鸞聖人の御教えを絶対不二の妙法と尊崇し聴聞する我々にと…
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真剣な聴聞 からだにかけず心にかけよ

 聴聞にまさる宿善はないといわれる。 しかしただ浄土真宗の法話に連なってさえいればよいというものではない。 どのような心で聴聞すればよいのか我々の先覚は、 衣食忘れて聞けと端的に教えている。 服装に心をかけたり、食事のことに気がかかっているようでは真剣な聴聞とはいえない。  子供が学校からの帰途、交通事故にあって何々病院へ…
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信心獲得は誰が決めるのか

信心獲得できねば必堕無間と言われますが、信心獲得できたかどうか誰が決めるのですか。また獲信できた者はお浄土へゆき、出来ない者は地獄へ堕ちるのでしょうか。如来さまは、そんな片手落なことをなさるでしょうか。信心というのは救われるということを信ずるところから始まると思いますが違いますか。私は「如来さまは何もかもお見透しじゃぞ」と知らされること…
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自分の魂の責任は自分でもて

 もしあの時あの会社に入らなかったら、もしあの時あの人にあわなかったら、もしあの時親鸞聖人の教えに出会わなかったら。 今私が親鸞聖人の真実の教えを聞く御縁に恵まれたことをふり返って見るとき、何の運命のいたずらかと、ただ不思議に思うしかない。 いつかどこかで一枚の歯車のカミ合わせが狂ったとしたら現在の自分はあったろうか。  これ…
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親鸞聖人はきびしい方か

 親鸞聖人という方はやさしい仏さまのようなお方だと私は今まで思っていましたが、浄土真宗の法話を聞くと、どうも聖人に対する考えが変って、大変きびしい方のように思われるようになりました。世間一般の人の考えている親鸞聖人は間違っているのでしょうか。  親鸞聖人には、きわだった二面があります。一面は大変やさしい温い、いわゆる仏さまのような面で…
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なぜ浄土真宗で親鸞会だけ本尊が名号なのか

浄土真宗の御本尊のことについてお尋ね致します。本願寺や浄土真宗の各末寺では阿弥陀如来の木像を御本尊として安置してありますが、親鸞会館は御本尊は御名号になっています。浄土真宗の家庭もほとんど絵像を御本尊としていますが、なぜ親鸞会だけが浄土真宗でありながら御名号を御本尊となさっているのでしょうか。非難される理由にもなるのではないでしょうか。…
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信心をとりて礼にせよ

蓮如上人の真面目「無益の歳末の礼かな、歳末の礼には信心をとりて、礼にせよ」多勢の人が歳末のお礼に来た時蓮如上人が仰言ったお言葉である。  生涯、「信をとれ信をとれ」「一日も片時も早く、信心決定せよ」と叫びつづけられた蓮如上人の面目躍如としてあらわれているではないか。「信心をとる」とは阿弥陀如来の大願業力によって絶対の幸福になるというこ…
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蓮如上人の本光房了顕への説法

蓮如上人の時代、本光房了顕という教行信証を護った尊い妙好人がおられました。 その了顕が、蓮如上人の導きを受ける様子を描いてみましょう。 了顯 上人様——助けて下さい… この了顕は恋に破れ、親に死に別れ、一体何の為に生きているのかとさまよい、ここ一つ明らかに導びく方はおられないかと求めました。  そしてあなた様にめぐり遇い心底…
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学生の混乱

東大生といえば昔からエリート中のエリートとして自他共に認められてきた。そのエリートであるべき学生の昨今の混乱ぶりは一体どうしたことか。理由はともあれ、学生が自らの手で授業を放棄し、バリケード云々にいたってはすでにその方向を見失っている。東大生がそうであるからまして他の学生においておやである。角材にヘルメットは序ノ口、月光仮面よろしく覆面…
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新解明・他力信心のすがた

 他力信心を具体的に説明せよという質問はよくあると思います。 いかにも他力の信心は、ハッキリした世界ですが、いくらハッキリした驚天動地の世界ではあっても、精神界のことですから、親鸞聖人が『正信偈』に「他力信心を得るということは卑提希夫人と同じように三忍を獲ることをいう」とお答えになっているようにしかお答えできません。 聖人は、他力の…
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浄土真宗が学べるウェブサイトが出現

これまで、真宗十派をはじめとする浄土真宗の伝統教団では、浄土真宗の教えの内容を学びたいと思っても、教えについてはインターネット上で学べるウェブサイトは存在しなかった。 どの浄土真宗の宗派も、どの公式サイトを見ても、歴史や制度、儀式の案内ばかりで、教えの内容を記載しているところはほとんどなかった。 また、記載していても、小話が幾つか順…
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仏法の重さが知らされるまで苦労して求めよ

「いたずらに過ぐる月日は多けれど法を求むる時ぞ少なき」 我々が阿弥陀仏の救済にあずかる第一条件は宿善である。宿善がなければ絶対他力大信心を獲得することはできない。病気になれば医者まかせ、車に乗れば運転手まかせというように後生の一大事の助かるかどうかはひとえにこの宿善の有無によって決する。  されば宿善は待つに非ず、求むるものなりと親鸞…
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人は何のために仏教を求めるのか

 人は何のために仏教を求めるのか。それは、仏法を求める目的は生死の一大事、即ち、後生の一大事の解決をする為です。仏法の内容も凡ての人々に生死の一大事、後生の一大事のあることを教え、その解決の方法を教示なされたものばかりです。  釈迦一代の教え、八万の法蔵といわれる一切経も、この一大事を我々に如何に知らせるか、この一大事をいかに解決する…
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教育の現場で神式罷り通る

この夏ある地方の小、中学校に新しいプールができ上った。 その落成式がまことに異様に、しかもい並ぶ高位高官(?)教育の大御所が 何の疑議もさしはさまずに滑らかに荘厳に行われていた。 というのは、プールのまわりに児童生徒が並び、正面に竹やらで作られた、 にわか祭壇が作られ主座には神主が慇懃にかまえている。 開式と同時に神主の祝…
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浄土真宗の僧侶が原理研究会に寺を貸す

 このところ、浄土真宗に対する非難攻撃、風当りは強いがついでにもう一つ。 最近或る寺がこともあろうに外道も外道、キリスト教に根をもつ新興宗教「統一原理研究会」に寺を貸したということが明らかになった。あいた口がふさがらないとはこのことをいうのか、金にさえなれば何でもするといった変節ぶりは乞食にも劣るあさましい行為ではないか。これでは落目と…
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信前の人に称名念仏を勧められた親鸞聖人の御和讃

信心の人におとらじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩を知り 称名念仏はげむべし という親鸞聖人の御和讃がありますが、これは信心決定しておらない人にも 念仏称えることをすすめられた和讃ではないでしょうか。 確かに「正像末和讃」の中にあなたが示された和讃があります。 この親鸞聖人の御和讃をよく信心決定しておらない人に念…
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体失不体失往生の諍論

親鸞聖人が法然上人のお弟子であったとき、同門の善慧房証空と論争をされたことがありました。 これを体失不体失往生の諍論といいます。 善恵房が、念仏を称えたら死んだら救われると説法していると、親鸞聖人がこういわれました。 親鸞聖人「今ほどあなたは阿弥陀仏は念仏を称えておれば、死ねば必ず助けて下さると申されたが」 善恵房は、それが…
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