近代システムと浄土真宗

 最近、産業、政治、教育界などで盛にいわれる言葉にシステム化ということがある。極めて高度化し、複雑化した社会全体がさらに他国をぬき人間の世、開闢以来の発展成長の為に誰も彼もが、しのぎをけずって進展するための方法的仮設である。 システムという語をウエヴスター大辞典で見ると「ある共通の計画に従う、また、ある共通の目的に奉仕する多種多様な部分…
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人生の目的、絶対の幸福とは

人生究極の目的は絶対の幸福だと言われますが、絶対の幸福とはどんな幸福を言うのでしょうか。また親鸞聖人はどこにそんなことを仰言っていられるのでしょうか。仏教では幸せと言われるものを二つに分けます。一つは相対的幸福と言わるべきものと、絶対の幸福と言われるものです。 相対的幸福とは、一時的な喜びや満足をいい、やがては必ず壊れたり、悲しみや苦し…
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2020年の浄土真宗

偉大なる足跡を残して、浄土真宗は2020年の春を迎えた。 この一年、ますます忙しく、親鸞学徒は浄土真宗の法話を迫られるだろう。 経済的には豊かになったけれども、めまぐるしく移り変る社会環境の変化に、大衆は自己を見つめる間もなく、しのぎを削っている。 この疲れきった大衆の心を癒しきれるものは親鸞聖人の教えより他にない。 五欲に溺れ…
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宿善の厚薄ということ

すべては聞法心、求道心如何にかかる  浄土真宗の根本は一念往生にある。阿弥陀如来の本願は一念でわれらを救いとって下される無上の勝法だからである。しかし信心獲得の時期に前後不同ができるのはどうしたわけであろうか。宿善まかせ、無宿善力およばずといわれるように、これひとえに各自の宿善の厚薄によることを知るべきである。されば我々の宿善の有無や…
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激動の70年と浄土真宗

エコノミック アニマル 1969年、それは激しい変動の年であった。東大安田城の攻防戦に明け、沖縄、安保の師走選挙で暮れたが、まさに世はスピード時代、昔の10年が今の1年、一世紀が10年のテンポでめまぐるしく移り変ってゆく。 国民総生産高世界第3位、西欧先進国の倍以上もの早さで進む経済成長は物質文明全盛時代をもたらした。物質の豊かさは消費…
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親鸞聖人の教えと礼儀

礼の心は悲歎から  現代青少年はそして一般も含めて、情操の音痴であり、礼儀の白痴であると嘆いている者がある。学校教育に問題があり、教師の怠慢だと罵る者もあれば、その前に家庭教育に問題がある、お母さんの悪いのが揃っている現代ではどうしようもないなどと嘆く者もいる。  最近浄土真宗でもこの点について非常に関心が高まり日常の行動につい…
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なぜ阿弥陀仏が本師本仏なのか

阿弥陀仏を本師本仏とか、本師法王といわれる理由は何でしょうか、お尋ね致します。 阿弥陀如来は光明無量、寿命無量、智慧と慈悲の如来であることは多くのお経に明らかですが、中でも、阿弥陀仏の勝徳は、光明智慧無量であることだと、親鸞聖人は讃嘆なされています。  それは、すでにブッダが出世本懐経たる『大無量寿経』に於て「阿弥陀如来の威神光明は…
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ホモ・サピエンスは 殺しあいが好き

「ホモ・サピエンス」とは「知恵ある人」ということである。東大の脳研究所の時実(ときざね)利彦所長の『脳の話』の中に次のようなことが書いてある。 「…興奮と感激のるつぽに溶けこませた太陽の国メキシコのオリンピックもその幕をおろした。「オリンピックは勝つことではなく参加することだ」とクーベルタン男爵が教えてはいるものの、やはり祖国日本の代…
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他力の大信心は母乳の味・平等一味の世界

親鸞聖人は他力大信心の妙徳を母乳に喩えて、寒暑同味、転苦吐甘、尊卑同一の三徳があると教えられている。寒暑同味の徳とは母乳が厳冬に飲んでも酷暑に飲んでも乳児には適温になって与えられるように真実の他力信心は、何時でも何処でも変らぬ味がするということである。転苦吐甘の徳というのは、母親が何を食べてもおいしい乳とするはたらきを持つように、他力の…
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聞即信とはどういうことか

浄土真宗の御法話に、よく聞即信という言葉が使用されますがどんなことでしょうか。  お尋ねの聞即信という言葉は阿弥陀仏が我々を絶対の幸福に救済して下される時のことを表わす言葉で、浄土真宗にとっては大変大切な言葉です 阿弥陀仏のお誓いは「聞其名号信心歓喜」とありますように、聞いて信ずる者を助けるという御約束ですから、聞くということが…
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なぜ大経だけが真実の御経なのか

親鸞聖人は、なぜ、大無量寿経だけが真実の経だといわれたのでしょうか。 親鸞聖人は『教行信証』の中に「それ真実の教をあらわさば、大無量寿経これなり」と明言なされております。 これは、ブッダの説かれた経典は八万四千とか七千余巻とか言われる程、たくさんありますが、ブッダの本心を説かれた、いわゆる出世本懐中の本懐経は、大無量寿経、た…
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今度だけは 仏法のために死なせてくれ・求法太子

 昔、ある国王が「太陽が出ている間に走り廻った土地を、その者に与える」というフレを出した。一人の百姓が早速志願した。彼は太陽が地平線に顔を出したのを合図に出発点の丘を勇躍して飛び出した。  太陽が沈むまでに出発点へ帰りついていなければ一日の努力が水泡になる規定である。一歩でも遠くまで足をのばして広い土地を得ようとする欲によって、彼の力…
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信行両座の諍論とは(三大諍論)信心か念仏か

親鸞聖人が法然上人の御弟子であった時に、その法友達と三度も激しい諍論をなされたということを、しばしばお聞きしますが、どんなことで諍論なされたのでしょうか。 第三の親鸞聖人の諍論は信行両座の諍論といわれているものです。これは、折角聖道自力の仏教が方便であることを知らされて多生にもあい難い阿弥陀如来の本願に遇い、同じく阿弥陀如来一仏を礼拝…
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仏教は何のためにあるのか

本願寺の責任といえばそれまでであるが、仏教を誤解して葬儀などの死人のものとしている者が世間には余りにも多い。 だから私は仏法をことさら求めなくてもよい。人よりは真面目な生活を送っているし、誰とも仲良く、ケンカ争いもしない、又家庭も円満におさまっているからたとえ死んでもそんな悪いところへは行かんだろうという人をよくみかける。  しかし法…
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信心同異の諍論とは

親鸞聖人が法然上人の御弟子であった時に、その法友達と三度も激しい調論をなされたということを、しばしばお聞きしますが、どんなことで諍論なされたのでしょうか。 聖徳太子を尊敬され「和をもって貴しと為す」の精神で一生貫かれた親鸞聖人に激しい大諍論が三回もあったということは信じられないことかも知りませんが事実なのです。これを聖人の三大諍論とい…
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信ずるということ 知るということ

 あの人ならと信じていたのに裏切られた、などということをよく耳にする。さも意外なことのようにきこえるが考えてみればありうることなのである。 信ずるという言葉は、疑いという言葉と表裏一体となって成立している言葉であるからである。疑いがあるから信ずるというのである。  ちなみに、明日の天気はと問われれば、雨だと思うとか、曇だと信ずるとしか…
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物質天国は幸せ?

昔、国立統計数理研究所が日本人の宗教的態度について世論調査をしたところ、(同じ調査をフランスが欧米八ヶ国で行った)「この世に神や仏がいるか」の問いに、肯定するもの欧米は70〜80%、日本は24%だそうで、次いで「この世は幸福になって来たか」の問いに、肯定は欧米が30〜40%に対し日本は70〜80%だった。  詳しくは判らないが大変面白…
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往生について浄土真宗の祖師・親鸞聖人の闘い

死後の救いか現在救われるのか。体失不体失往生の諍論に聞く  親鸞聖人を柔和な方のように思っている人が多い。確に聖人には慈悲の権化のような面もあるが、それよりも秋霜烈日たる峻厳さこそ聖人の真面目と私は憶う。聖人の御一生は正に破邪の法戦の連続であったといって過言ではない。親鸞聖人の御降誕を縁として、その法戦の一つ、体失不体失往生の諍論を書…
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「天上天下唯我独尊」とは

ブッダは誕生なされた時に「天上天下唯我独尊」と言われたそうですが、仏教は、そのような独尊的な教えなのでしょうか。  大変、世間一般に誤解されている仏教の言葉です。確かに、釈尊が誕生された時に、天と地を指さゝれて「天上天下唯我独尊」と叫ばれたと記録されています。 これを多くの人々は「この世で一番、偉くて尊いものは自分一人である」と釈尊が…
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まず心の臨終を

浄土真宗には二度の臨終、二度の葬式があると聞きましたが、どんなことでしょうか。  二度の臨終といいますのは、心の臨終と肉体の臨終のことです。故に、二度の葬式というのも同じく心と肉体の葬式をいいます。 親鸞聖人は、阿弥陀如来の本願を信ずる直前に我々は一度死ぬのだと仰言っています。その直後、生きかえった時が阿弥陀如来に救われた時であると…
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親鸞聖人と柴田勝家

まことの厳しさと私情の恐ろしさ親鸞聖人は、真実の為には吾子をも勘当 建長8年5月29日、84才の親鸞聖人が、遠く関東に布教していた吾子善鸞に義絶状を送り「あさましさ、申すかぎりなければ、いまは親ということあるべからず。子と思うこと、おもいきりたり。かなしきことなり」と親子の縁をキッパリと断ち切っておられる。  善鸞が、「わしは父、親…
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阿弥陀如来に抱かれて尊き親鸞学徒の皆様へ

「生き仏、如何に攻撃受けようと ビクともしない金剛心」 尊き偉大なる善知識の御心中を歌わせて頂きました。尊き親鸞学徒の皆様、この広い世界に善知識と名のつく人は一体どれだけ居なさることでしょう。生きる意味は信心決定ただ一つあるのみ、後生の一大事程新しい生きた言葉はありません。 その新しい広大なる南無阿弥陀仏の真実を、夢の世界にたわむれてマ…
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ねこもしゃくしも 歎異抄というが正しく解説した唯一のサイトは……

歎異抄(たんいしょう)は明治の傑物、清沢満之が世に大きく紹介し、以後誰も彼も親鸞聖人といえば歎異抄、歎異抄といえば親鸞聖人とイメージが湧く程やかましくなっている。 ところで、先日自ら学あると自負している某浄土真宗の僧侶とたまたま邪教の話などから歎異抄の話に移るに及んで驚いた。 それは、あの歎異抄を読んで「ただ念仏して弥陀に助けられ……
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歎異抄の解説スタート

歎異抄(たんいしょう)を知らずして仏法を語ることなかれといってもオーバーでない位に歎異抄が愛読され、話され、また数えきれない位に解説書が本屋の店頭を賑わしている。 しかし歎異抄は非常な名文であることと、他力信心の極地をあらわしたものである為、あぶない箇所が多く、カミソリ聖教といわれ蓮如上人は信仰の浅い者の為にはこれを読ませてはいけない…
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浄土真宗の祖師・親鸞聖人の流刑の真因とは

 浄土真宗の祖師、親鸞聖人は35才の時、住みなれた京都から追放され、越後(今の新潟県の直江津)へ罪人として流刑になったことは周知の事実である。そうであれば、その理由は何んであったのであろうか。親鸞聖人がどんな悪事をなされた結果なのであろうか。流刑という極刑にあわれた真の原因は何か。親鸞聖人の御教えを絶対不二の妙法と尊崇し聴聞する我々にと…
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真剣な聴聞 からだにかけず心にかけよ

 聴聞にまさる宿善はないといわれる。 しかしただ浄土真宗の法話に連なってさえいればよいというものではない。 どのような心で聴聞すればよいのか我々の先覚は、 衣食忘れて聞けと端的に教えている。 服装に心をかけたり、食事のことに気がかかっているようでは真剣な聴聞とはいえない。  子供が学校からの帰途、交通事故にあって何々病院へ…
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信心獲得は誰が決めるのか

信心獲得できねば必堕無間と言われますが、信心獲得できたかどうか誰が決めるのですか。また獲信できた者はお浄土へゆき、出来ない者は地獄へ堕ちるのでしょうか。如来さまは、そんな片手落なことをなさるでしょうか。信心というのは救われるということを信ずるところから始まると思いますが違いますか。私は「如来さまは何もかもお見透しじゃぞ」と知らされること…
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自分の魂の責任は自分でもて

 もしあの時あの会社に入らなかったら、もしあの時あの人にあわなかったら、もしあの時親鸞聖人の教えに出会わなかったら。 今私が親鸞聖人の真実の教えを聞く御縁に恵まれたことをふり返って見るとき、何の運命のいたずらかと、ただ不思議に思うしかない。 いつかどこかで一枚の歯車のカミ合わせが狂ったとしたら現在の自分はあったろうか。  これ…
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親鸞聖人はきびしい方か

 親鸞聖人という方はやさしい仏さまのようなお方だと私は今まで思っていましたが、浄土真宗の法話を聞くと、どうも聖人に対する考えが変って、大変きびしい方のように思われるようになりました。世間一般の人の考えている親鸞聖人は間違っているのでしょうか。  親鸞聖人には、きわだった二面があります。一面は大変やさしい温い、いわゆる仏さまのような面で…
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なぜ浄土真宗で親鸞会だけ本尊が名号なのか

浄土真宗の御本尊のことについてお尋ね致します。本願寺や浄土真宗の各末寺では阿弥陀如来の木像を御本尊として安置してありますが、親鸞会館は御本尊は御名号になっています。浄土真宗の家庭もほとんど絵像を御本尊としていますが、なぜ親鸞会だけが浄土真宗でありながら御名号を御本尊となさっているのでしょうか。非難される理由にもなるのではないでしょうか。…
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