体失不体失往生の諍論

親鸞聖人が法然上人のお弟子であったとき、同門の善慧房証空と論争をされたことがありました。

これを体失不体失往生の諍論といいます。


善恵房が、念仏を称えたら死んだら救われると説法していると、親鸞聖人がこういわれました。

親鸞聖人「今ほどあなたは阿弥陀仏は念仏を称えておれば、死ねば必ず助けて下さると申されたが」

善恵房は、それがどうかしましたか。

「若しそのように仰言ったのなら間違っております。

阿弥陀如来の本願は死んでから助けるという御約束ではございません。

この体を失なわないうちにつまり現在、平生のうちに阿弥陀仏を信ずる一つで大安心、大満足の身に

阿弥陀如来が助けて下されると親鸞は頂いております」

「何を言われる、親鸞殿。

この世はどうにもならないものではありませんか。

どうしてこの世で助かりましょう。

死んだら極楽に生まれさせて頂けるのです」

親鸞聖人はこう言われます。

「あなたも御承知の通り、本願にはお前らを若し生れさせることができなかったら正覚とらぬ。

 仏の悟りをすてましょうと阿弥陀仏は約束してあるではございませんか」

「何を言うかと思えば、それこそ死んだら極楽と誓われたのではありませんか。

 生まれさせるとお約束されているのですから」

「それは善慧房、あなたの誤解です。生まれさせるとはこの肉体のことだけではありません。

 阿弥陀仏は暗い寂しい心で毎日苦しみ悩んでいる私のこの心を

 今明るく楽しい大満足の心に生れかえさせてやろうと仰言っているのです」

「あなたがどんなにうまいことを行っても、お経になければ仏教ではありません。

 お経のどこにそんな根拠がありますか」

「小坂の善慧房殿、あなたは本願成就文をごらんになったことはないのか。

ここをごらんなされ。明らかに死んでからの教えではなく現在阿弥陀仏が救って下さるとあるではありませんか。

そして生れるとは明らかに苦悩うずまく真っ暗な心が明るいなんの障りもない無碍の一道、

光明の広海に転ずるとあるではないですか。

この世はどうにもならぬ故、念仏を称えてあきらめておれ、

死んだら阿弥陀仏が助けて下さる等という教えは断じて仏教ではありません。

勿論、お師匠様法然上人の御教ではありませぬ」

そのとき法然上人がお出ましになられ、こう言われました。

「そうか、では皆の衆、よく聴かれるがよかろう。

ただ今の死んでからのお助けか、この世でただ今助かるかの法論、これは親鸞のいうとおりじゃ。

ただ今助からんものが、どうして死んでから助かることが出来ようぞ。

死後の苦しみさえ助けて下さる阿弥陀仏ならどうして今の苦しみを助けられぬ筈があろう。

今の闇い心を助けて頂き信心決定、阿弥陀仏の大慈悲心をまるもらいして仏心凡心一体になり

日本晴れの心に救われた者のみが死ねば、

極楽浄土へのり込み、阿弥陀仏と同体の身になる事が出来るのじゃ。

どんなに口に念心を称えておっても、自力の念仏では浄土へはゆけんのじゃ。

皆の衆、命のあるうちに一刻も早く後生の一大事を解決して

御恩報謝の念仏を称える身にならなければなりませぬぞ!!」

これが法然上人、親鸞聖人の明らかにされた、浄土真宗なのです。


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