信心同異の諍論とは

親鸞聖人法然上人の御弟子であった時に、その法友達と三度も激しい調論をなされたということを、しばしばお聞きしますが、どんなことで諍論なされたのでしょうか。

聖徳太子を尊敬され
「和をもって貴しと為す」
の精神で一生貫かれた親鸞聖人に激しい大諍論が三回もあったということは信じられないことかも知りませんが事実なのです。
これを聖人の三大諍論といわれています。

三大諍論の第一の諍論は、体失不体失往生の諍論といわれ、
第二は信心同異の法論といわれているものです。

 これは、『御伝鈔』にもあるように、こともあろうに法然上人始め聖信房、勢観房、念仏房等の錚々たる上足の居並ぶ前で
「御師法然上人の御信心も、この親鸞の信心も少しも異ったところはございません。全く一味平等でございます」
と、親鸞聖人が無遠慮に満々たる自信を喝破なされたことから始まったのです。

このわが聖人の一味平等の宣言は聖信房らにとってはまさに晴天のへきれきであったに違いありません。
当時、法然上人は智慧第一、勢至菩薩の御化身と尊崇されていた方です。
その法然上人と弟子の信心が同じになれるなどと云うことは夢にも考えられぬことであったからです。
親鸞殿、あなたは如何に秀れていられようとも少し口が過ぎはせられぬか。
深智博覧、智慧第一の御師匠さまの信心と弟子であるあなたの信心と同一とは驕慢至極であり、自惚も甚しいではござらぬか。
われらの御師を冒涜する暴言でござろう」
と激しく難詰致しました。

 朝夕、共に法然上人の説法を聞いておっても、しっくり合わないお言葉が、しばしば聞えて参ります。
法然上人が泣き泣き報恩蔵に入って五回も一切経を読破して、とても助からぬ自己に驚き、極重の悪人が極善無上の妙法に生かされた一念の体験を話されても、彼らには、そのような鮮かな一念の体験がありません。

法然上人の告白される血を吐く三品の懺悔もなければ飛び立つような大慶喜もありません。
これはなぜだろうと思ってはみますが、御師匠さまと一味になれる筈がないと思い込んでいますから、さすがは御師匠さまは智慧第一の方だ。
ただ人ではないわい、我々のとても及ぶところではないと上人を雲の上に奉って有難がっていた連中ですから、親鸞聖人のお言葉は大変な驚きであったのです。

 その時、聖人はおだやかに「皆さん、お聞き違い下さいますな。
この親鸞は智慧や学問やお徳が御師匠さまと同じだと言っているのではありません。
もし,智慧や学問が同じだとでも云ったのなら、あなた方の非難もごもっともなれど、さようなことは親鸞夢にも思ったことはございません。
ただ阿弥陀如来より賜った他力金剛の信心一つは微塵も異ならぬと申したのでございます」
と断固として言い切られました。

 この激しい信心の諍論に対して法然上人の御裁断は実に快刀乱麻を断つ明快そのものでありました。
まずとても御師匠さまの信心と同じになれぬ、師と弟子の信心は異ってこそ当然だと主張していた聖信房、勢観房、念仏房らに対して、
「信心のかわると申すは自力の信にとりてのことなり、即ち、智慧各別なるが故に信また各別なり」
と仰言って、この法然の信心と異なるということは、お前さんらの信心は自力の信心ということだときめつけておられます。
そして「大体、自力の信心は各自の智慧や学問で築き上げる信心だから、どこまでいっても平等一味になれる筈がないのだ。
十方衆生一人として平等の心を持ってはいないのだから、それぞれ智慧才覚に応じて異なった信心を造り上げる、
これが自力の信心のすがたなのだと仰言って、それに対して、他力の信心は善人も悪人も智者も愚者も共に阿弥陀仏より賜わる信心であるから、異なる道理がないのだ。
平等の大慈悲の月は大海でも小池でも盃の水へもドブ溜の中にでも水のあるところには平等に影を宿すように、われわれの智愚や貧富や老幼、貴賎善悪、男女の差別によって救いを左右される阿弥陀仏ではないのだ。
この法然の信心も弥陀より頂いたもの、親鸞の信心も同じく弥陀から賜った大信心であれば全く同じである。
この法然が賢くて造った信心ではないのだ。
同一の信心でなければ平等の証果は得られない。
もし、この法然の信心と異なった信心を持っている者は、この法然と同じ浄土へは行かれない。
この信心決定せずば極楽に往生せずして無間地獄に堕在するのだから、よくよく思案しなさいよ」
とキッパリと相手の顔色もうかがわず仰言いました。

「ここに面々舌を巻き、口を閉じてやみにけり」
と『御伝鈔』にありますように、またしても親鸞聖人に勝利の凱歌があがりました。

 自信か驕慢かは聞く人によって決まるのです。
親鸞聖人がお師匠さまの信心と私の信心は全く同じだと大胆に不敵に喝破されたのは絶対不二の自信に立っておられたからであります。
そして、自力の信心と他力信心との水際を鮮明にせんが為の大諍論であったのであります。

真実の信心は必ず名号を具す。名号は、必ずしも願力の信心を具せざるなり。
               親鸞聖人

ただ口にだにも、南無阿弥陀仏と称ふれば助かるように皆人の思へり。それは覚束なきことなり。
               蓮如上人


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