ブッダや親鸞聖人は死後は説かれなかった?

死後の世界の存在や、霊魂の存続することについて、ブッダ親鸞聖人は、死後の世界や霊魂の存続を認められず語られなかったように思いますが如何なものでしょうか。

そのような仏教観をもっている人は今日相当あるようです。
しかしそれは果して正しい見解でしょうか。

 ブッダが死後の世界や霊魂(仏教では霊魂という言葉は使用しませんが、仮に)の存続を認め説かれたか、否かの真偽は、あくまでも今日残されていますお経に、その根拠を求めねばなりません。
もちろん各人の想像としてならば、どのように考えられようとも自由ですが、仏教の説として主張せられる限りは、やはり経典にその根拠をおかねばなりません。
 経典の中には、どのようにネジ曲げて解釈しようとしても、どうしても死後の世界、霊魂の存続を説かれたとしか受けとれない数多くの経文があります。
 煩わしいですが、その幾つかを挙げてみましょう。
『雑阿含経』巻四十六、『自恐経』に
「若し、命終の時、此の身は若しくは火焼せられ、若しくは塚間に棄てられ、風に飄され、日に曝さるるとも、久しくして塵末となるとも、心意識は久遠長夜に正信に薫ぜられ、戒・施・聞・慧に薫ぜらる。
神識上昇して安楽処に向い、未来は天に生ぜん」
 又『同巻』、『五仙尼経』には、
「仏、仙尼に告げたまわく『我が諸の弟子、我が所説を聞き、悉く義を解せずして慢を起し、無問等は無問等に非ざるが故に無我の道理に安住していないから)慢、則ち断ぜず。
慢、断ぜざるが故に此の陰を捨て已りて陰と与に相続して生ず。
是の故に仙尼、我れ則ち記説せり。
是の諸の弟子は身壊命終して彼々の処に生ずと。
所以は如何。
彼れは余の慢、有るを以っての故なり』」
『雑阿含経』巻第十九には、
 ある日、目連が托鉢から帰ってブッダの許に到った時、
「私は先程、身体は途方もなく大きいのに悲しみ、苦しみ泣き叫びながら虚空をとんでゆく精霊の姿を見ました」
と語りました。
その時釈尊は次のように経典に説かれています。
「その時世尊、諸の比丘に告げ給わく『善哉、善哉、我が声聞中実眼、実智、実義、実法に住し、決定して通達せるは是の衆生を見るなり。
我れもまた此の衆生を見て、而も説かざるは、人信ぜざるを恐る。
ゆえんはいかん。
如来の所説を信ぜざらん者あらば、是れ愚痴の人にして長夜に苦を受くればなり」
等と説かれています。
この種の根拠は『阿含経』にすら枚挙に暇がありませんから大乗経典においては尚更のことで。
 されば、わが祖師、親鸞聖人もこの仏意を受けられて『末灯鈔』には
「この身は今は歳きわまりて候えば、定めて先立ちて往生し候はんずれば浄土にて必ず必ず待ち参らせ候べし」(十二通)
信心の定まると申すは摂取にあずかる時にて候なり。
その後は正定聚の位にて、まことに浄土へ生まるるまでは候べし」(十三通)
と仰せになって死後の世界を明らかに認めておられます。

 まったく「親鸞更に珍しき法を弘めず、如来の教法を我も信じ人にも教え聞かしむるばかりなり
親鸞更に私なし」の御持言の通りです。
阿弥陀如来に救われるには、自分の思いではなく、よくよく浄土真宗の法話聴聞せねばなりません。


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