極楽は楽しそうだから行きたいと思う人は極楽に往けない

蓮如上人の『御一代記聞書』に
極楽は楽しむと聞いて参らんと願ひのぞむ人は仏にならず。
弥陀をタノム人は仏になる」とありますが、これはどういう意味でしょうか。

蓮如上人がある時、
「熱心に仏法を聴聞する人はあるが、他力の信心を早く獲得しようと真剣に求むる人がいない。
死んだら極楽へ参って楽をしようと思って浄土真宗の法話聴聞しているものばかりだが、そんな者は絶対に極楽へも往けぬし仏にもなれぬ。
現在救われている(弥陀をタノム)者だけが往生もできるし仏になれるのだ」
と仰言ったということです。

 曇鸞大師も『論註』に
「もし人無上菩提心を発さずして、ただかの仏土の受楽ひまなきことを聞きて、楽の為の故に生ぜんと願うも、また往生を得べからず」
と仰せになっていられるのと意は一つです。
ここにいう無上菩提心とは真実の信心のことでありますから信心決定せずしては絶対に極楽へは行けないと断定なされ、早く信心を獲ることをお勧めになっていられます。
 まことに蓮如上人の仰せの通り現今の浄土真宗僧侶も門徒の人々も信心獲得するということを全く忘れて、へ参って聴いてさえおれば死んだら極楽参り間違いなし、八功徳水の温泉に入って応報の妙服を着て、百味の飲食タラ腹喰うて寝ることばかり考えております。
ただ今の救いを抜きにして死後の華ふる浄土のことばかり夢みている人のいかに多いことでしょうか。
 それはひとえに、阿弥陀如来の本願の聞き誤りからおきているのです。
苦悩渦巻く人生を光明輝く人生へと救いとって下さる弥陀の御本願であることを知らないからです。

 この世から五十一段のさとりを飛び越えて正定聚不退といって、絶対の幸福に救って下される阿弥陀如来の願力不思議を知らず、死なにゃ助けて貰えないと聞き誤っているからなのです。
このような聞き誤りは親鸞聖人の法友にすらたくさんありました。
 親鸞聖人はある時、法友の善慧房とこのことで大げんかをなさっております。
善慧房は死んだ時でなければ助けて貰えない(体失往生)と言ったのに対して、聖人は断固として、弥陀を信ずるただ今の一念に無上絶対の幸福に救って下されるのが弥陀の御本願であり、お約束だと断言なさいました。
 そして御本願の通り救われたことを「信心決定」とも「不体失往生」とも「平生業成」とも「弥陀をタノム」ともいい、その身にただ今なっている者だけが臨終捨命の時には弥陀の浄土へ生れかわり弥陀と同体の覚りを開かせて頂けるのだと喝破なさいました。
 だからこそ未来助かるか、どうかのポイントは実にただ今救われたかどうか、信心決定できたか否かで、決定するのだと教えられ、一日も片時も急いで信心決定して日本晴れの大安心になれと蓮如上人も叫びつづけられたのです。

この『御一代記聞書』の御慈訓も、かかる聞き誤りを正す為に仰せになったものでありますから、我々もくれぐれも仏教聴聞の目的は信心決定(弥陀をタノム)一つにあるのだということを忘れず、今日こそは今日こそは信心決定するぞと覚悟して求め進まなければなりません。
「早く信をとれ、早く信をとれ」
は蓮如上人の口ぐせであり
「あわれあわれ存命のうちに、みなみな信心決定あれかしと朝夕思ひはんべり」
蓮如上人の御遺言であったことも合せてよくよく銘記すべきことであります。



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