非難文書についてハッキリしない信心獲得があるのか?

非難文書に
「高森自身が表面では『一念覚知』を主張しないと云っているが、著書、法話の中で度々『火にさわったようなハッキリしたものが、信心決定、あるいは信心獲得という体験』と云い、『一念覚知』を主張している」
という非難だ。
浄土真宗の僧侶がよくもこんな恥知らずな事が書けたものだ。

 自己の無安心、不決定を白日に晒したのだが、本願寺指導者の中に一人でもハッキリした信心決定の体験者があれば、こんな馬鹿げた事を書かずに済んだものを。
当に「盲、蛇におじず」である。

 常々、高森先生は
「火にさわったようなハッキリした体験が信心決定、信心獲得という事である」
と御教示下されているが、何年何月何日何時に信心決定したなどと仰言った説法は聞いた事がない。

 もし「信心決定とは、ハッキリした体験であり、明らかに自覚できるものである」
というのが「一念覚知」
の異安心だというのならば、親鸞聖人はじめ覚如、蓮如上人もみな「一念覚知」
の異安心になってしまう。

 親鸞聖人は「噫、弘誓の強縁は多生にも値ひ固く、真実の浄信は億却にも獲固し、遇行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」
と億劫にも獲がたい浄信を獲て遠く宿縁を慶ばずにおれないと御述懐なされているからである。
これも「一念覚知」と暴言するのか。

 また、覚如上人も「われ已に本願の名号を持念す。
往生の業、已に成弁することを喜ぶ」
と救われた明らかな自覚を告白なされている。

 蓮如上人も「他力の信心という事をば、今すでに獲たり─乃至─今こそ明らかに知られたり」
と幾度も喝破なされているが、これも「一念覚知」
の異安心だというのか。

 親鸞聖人や蓮如上人を「一念覚知」
の異安心と非難する現今の本願寺は、一体どなた様の安心を正意の安心としているのであろうか。

 そもそも我々が仏法を聴聞する目的は「信心決定」
以外に何もたい。
この事は蓮如上人の『御文章』や『御一代聞書』に「早く信をとれ」
とか「一日も片時も急いで安心決定せよ」
と御勧化の通りである。

 この信心決定するとは、どういう事かといえば
「必ず絶対の幸福に救うと誓われた御約束通り、弥陀の本願は私一人をこの身に救う為であった」
と慶喜せずにおれない体験をいうのである。

 この体験がハッキリせず、明らかに自覚できずして、どうして安心ができよう。
救われた喜びがなくしてどうして念仏喜べよう。
安心出来なければ一生涯、不決定、不安で暮さねばならない。
喜びがなければ未来永劫、不平、不満から離れ切れないが、これでは仏法を聞いた所詮がどこにあろう。

 地獄一定の苦が極楽一定の楽に転じ変った体験は、ハッキリしないはずはない。
そこまで求め切る者がいないから「凡夫にハッキリするものではない」
と非難する。

 真剣に求めた事も、聞き歩いた事もない者が「今後とも門信徒の中において信仰上の迷いの生せぬよう指導せよ」
と指示しているがとんだ大本営発表ではないか。
無安心、未安心の者が何を指導するのか。
聖人の真意も判らず、迷っている本願寺が迷うている門信徒を、一体どう導けば
「迷いの生ぜぬよう」
になるのであろう。

 盲は盲しか導けないが、無間の火坑に堕つる事は火を見るよりも明らかである。

 真実に開眼した親鸞学徒こそ、何も知らずに導かれている多くの盲を無碍の大道へ導ける三界の大導師である。
使命尊し、責任重大、いよいよ真実に邁進せねばなるまい。

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